アジア史・日本史・考古学・文学の垣根を越えた学際的な研究を目指して

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2013年1月10日(金) 【共通テーマ】兵站(日本の古代と近代)
発表者:井上和人(考古学専修・教員)
古代日本の都城・王宮についての地勢学的考察
Topographical Analysis about Capitals or Emperor's Palaces of Ancient Japan
by INOUE Kazuto

【報告要旨】
 古代日本において都すなわち王宮や都城は、めまぐるしく移動した。794年の平安京遷都以降、明治維新までのおよそ1100年の間、京都が首都であり続けた歴史と著しい対比をみせる。7世紀の前葉までの大和王権の王宮は、天皇(大王)の代替わりごとに新たな場所に新たな王宮を造営するという慣わしであった。これを歴代遷宮という。その後、7世紀の末葉に藤原京という、わが国初めての大陸式矩形都城が出現するまでの間、大和飛鳥の地の同一地点における王宮造営の時期が続く。その間、一時期難波そして近江大津に王宮が遷される事態が出来する。7世紀前葉以後の王宮の変遷については、私は、すでに、当時の緊迫した国際関係に促されたものとの理解を提起している。今般は、各王宮の立地している地勢に視点を求めて検討を試みる。

発表者:藤岡佑紀(日本史学専修・博士後期)
日清戦争における軍夫
Military Porter at Sino-Japanese War
by FUJIOKA Yuki

【報告要旨】
 1894年(明治27年)に勃発した日清戦争では一般の兵士以外に、主に物資の運搬任務に就く軍夫と呼ばれる民間人が多数存在した。軍夫という名称は江戸時代にも軍夫役という形で存在し、幕末の長州戦争や戊辰戦争でも各軍は多数の軍夫を駆り出した。一方これらの夫役がなくなった明治期に起こった西南戦争でも、臨時雇用という形でやはり多数の軍夫が軍の輸送任務に就いている。そしてそれからさらに約20年が経過した日清戦争でもやはり、多数の軍夫が軍の輸送任務に就くことになったのである。
 本報告では軍夫の歴史と変遷にも触れながら、日清戦争においての軍夫の性格や「近代軍」になぜ臨時雇用の民間人が多数存在していたのか、などの点から当時の日本陸軍の兵站について考察を行っていく。

2013年12月20日(金)
発表者:氣賀澤保規(アジア史専修・教員)
新発見隋煬帝墓の紹介とその意義
The Introduction to the Tomb of the Emperor Yo-dai Sui China found recently and its Significance
by KEGASAWA Yasunori

【報告要旨】
 隋の煬帝は倭国の小野妹子が遣隋使として会い、「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す」の国書によって、「蛮夷の書に無礼なるものあり」と激怒させた人物として有名である。彼は大業14年(618年)3月に、江都宮(揚州)で部下のクーデターによって殺害され、そのまま現地に埋葬された。その墓地が、本年4月に発見されたとの報道が流れ、私たちを驚かせた。その場所は従来煬帝陵といわれた場所とは隔たっていた。
 では発掘された墓地の状況はどうなっていたか。何をもって煬帝墓と認定されたのか。その横に見つかった墓をどうみるか。またそれらの全体構造や副葬品は? 本報告は当面把握しえたところの煬帝墓地の全容とその材料を紹介し、今後押さえるべき課題や視点などについて助言を得たい。

発表者:堂野前 彰子(明治大学経営学部・兼任講師、日本文学)
古代日本文学に描かれた「東(アヅマ)」
AZUMA in the Old Japanese Literature
by DONOMAE Akiko

【報告要旨】
 古代日本において東国は、常世の国、フロンティアとして幻想されていた。まさに『常陸国風土記』には、沃土が広がり海の幸や山の幸に恵まれた常陸は、まるで常世の国のようだと記されている。神武天皇が東征を開始したのも東に沃土が広がっていたからではあるが、東を目指したのはそのような現実的地理的環境ゆえではなく、太陽神の末裔にとって日の昇る東は聖地であり、東遷することにおいて国家は力を維持しえるという思想があったからでもあろう。『日本書紀』崇神天皇四十八年条でも、皇位継承をめぐって二人の皇子が見たのは、一人は武器を天に突き上げる夢、一人は農耕祭祀を行う夢であったように、古代国家にとって東国経営は皇位継承と並びあげられるほどの関心事であった。古代において東国は、新しく開墾された国土という以上に中央を支える概念として重要であった。
 ところが古代における東国が実際にどの地域をさしているのかは不明瞭で、日本古典文学大系『万葉集』の解説では、次のように三段階の「東(アヅマ)」を提示している。第一のアヅマは現在の関東や東北地方にあたる国々ですなわちヤマトタケルが「吾嬬はや」と嘆いた足柄峠以東を指し、第二のアヅマは信濃・甲斐・駿河・遠江の国々、第三のアヅマは飛騨・美濃・尾張・三河以東の国々を指す、と。この第二のアヅマの境界線は今日の長野県・静岡県の西境に当たり、西日本方言と東日本方言とを分ける境界線でもある。しかも弥生式土器がその境界線を越えて東に分布がないことに明らかなように、そこには文化をも東西に二分する大きな断絶があるという。
 さらに興味深いことには、その日本を東西に分断する境界線は、中央構造線および糸魚川静岡線という断層に限りなく一致し、その断層にそってヒスイ(硬玉)が産出されている。つまり第二のアヅマに注目するのであれば、姫川(糸井川)から諏訪湖、天竜川を経て浜名湖へと至る水上交通が浮かびあがってみえ、その起点となる浜名湖は一方で海によって伊勢と結ばれていた。そのような道や第二のアヅマを、万葉東歌のみならず、記紀のヤマトタケル伝承や巻七羈旅歌のうちにも見出すことができるのではないか。この報告は古代道の様相を文学から考える試みである。

2013年12月6日(金) 【文化継承学Ⅰ・Ⅱ合同開催 】
発表者:李相雨(国文学専攻客員教授・高麗大学国文学科教授)
東洋を目指していく劇作家たち:韓国演劇と東洋主義 ~1940年代と1970年代の韓国演劇に現れた「東洋熱風」と「東洋主義」~
Korean Playwrights Heading for Asia: Asian Enthusiasm and Asianism in Korean Theatre in the 1940s and ’70s
by Lee Sang Woo

【報告要旨】
 1940年代と1970年代の韓國演劇に現れた東洋熱風と東洋主義の現象と意義を分析する。
(参考)報告者(李相雨先生)紹介:
高麗大学国文学科卒業(1986)
高麗大学大学院国文学科博士課程修了、文学博士(1996)
嶺南大学国文学科教授(1996-2007)
Columbia University(USA)客員硏究員(2002-2003)
現在、高麗大学国文学科教授(2007-現在)
 演劇評論家(現在、韓国演劇評論家協会理事)
 韓国劇芸術学会Journal『韓国劇芸術硏究』編輯委員
著書、『私たち演劇100年』、『近代劇の風景』、『柳致真硏究』、『植民地劇場の演技のモダニティ』、『世紀末のイフィゲニア』等

発表者:日向一雅(明治大学古代学研究所研究員・前明治大学教授、日本古代文学)
源氏物語注釈史における『尚書』と周公旦注

by HINATA Kazumasa

【報告要旨】
 源氏物語古注釈史は藤原伊行『源氏釈』(1170頃)から藤原定家『奥入』(1233)、『光源氏物語抄』(1267)、素寂『紫明抄』(1294)、源親行・行阿『原中最秘抄』(1364)を経て、四辻善成『河海抄』(1362)で集大成される。それが三条西実隆・公条・実枝を経て、中院通勝『岷江入楚』(1598)まで継承された。そこで指摘された漢籍の出典・典拠のうち、主として『尚書』と周公旦を指摘する注釈を中心に、その注釈がどのように発展していったのか、それはどのような源氏物語の読みを導くものであったのか、源氏物語の表現の構造にどのくらい深く切り込んでいたと考えられるか等々の問題を検討してみたい。特に『河海抄』はそれまで注の整理統合にとどまらず、注の引用を増やし出典を正確に記して、源氏物語の表現世界の広がりと奥行きを立体的総合的に捉える注釈を達成した。『河海抄』の序文と「料簡」はそのことを端的に示す。序文では注釈史を概観し、「料簡」では源氏物語の成立、作者、主題、方法、後世への影響等について略述するが、主題把握は明確な儒教的言説を提示する。本報告ではそのような『河海抄』の儒教的主題把握の成立に果たした『尚書』と周公旦注に注目し、その展開をたどるとともにその意義を考える。

2013年11月22日(金) 【共通テーマ】東日本大震災復興と文化遺産保護の現実
発表者:本間 宏(福島県文化振興財団歴史資料課長)
地域崩壊の危機における文化財保護活動 -福島のいま-
Protection Activities of the Cultural Property in the Crisis of Collapsing Local Communities:Present Situation in Fukushima
by HONMA Hiroshi

【報告要旨】
 東北地方太平洋沖地震に伴う原発事故により、避難対象地域と住民との分断は、長期化の様相を見せ始めている。避難地域の伝統文化と文化遺産を守り、地域再生に望みをつなぐという希望は、徐々に絶望へと変わろうとしている。避難住民は全国に四散しており、帰還できる保証はいまだ得られておらず、帰還できたとしても旧来の生活が成り立つ見通しは得られないままである。
 避難生活を送る人々が、古里で人間らしい暮らしを取り戻すには、古里の自然、歴史、文化を回復し、地域固有の価値を共有することが基礎になる。しかし、地域再生への道のりはあまりにも遠く、地域の歴史文化遺産をどう保護して継承を図っていくべきかが問われている。
 震災発生以降の文化財保護活動の取り組みと、福島県の現状を伝え、共同体が崩壊した地域における文化継承の意味と課題を考えたい。

発表者:石川日出志(考古学専修・教員)
震災復興と文化遺産のはざま―陸前高田市の事例から―
On the Gap between Reconstruction Works and Protection of Cultural Heritage after the Great East Japan Earthquake:In the case of Rikuzentakada,Iwate Prefecture
by ISHIKAWA Hideshi

【報告要旨】
 東日本大震災は、東北北部から関東東部までの沿岸域に甚大な津波被害をもたらした。震災後2年あまりを経て岩手・宮城両県では復興に向けた諸事業が展開されている。壊滅的被害を受けた地域では、歴史・文化遺産を活かしたソフト面を取り込んだ地域の復興こそが重要であるにもかかわらず、ハード面ばかりが優先される傾向がある。
 報告者は、今年2月から陸前高田市教育委員会の事業である「文化財等保存活用計画策定委員会」の一員として気仙地域の歴史・考古・民俗学的調査を進めている。同市では、市民の方々が被災後に地域の歴史・文化の重要性に気づき、その積極的な活用を取り込んだ復興事業を目指すべきだという意見が出されている。その焦点が、「高田のまちの原点」である高田城跡である。しかし、市の復興担当部局は、高台移転事業計画地に高田城跡の1/3を取り込み、市民や委員会の意見があっても計画変更の動きはない。その実情を紹介する。

2013年10月25日(金) 【共通テーマ】奈良・平安時代の官人社会における序列
発表者:石坂佳美 (日本史学専修・院生)
平安中期における官人の序列
Social Order of Government Officials in Middle Heian Period
by ISHIZAKA Yoshimi

【報告要旨】
 平安中期の代表的な古記録には、官人が行立や着座を行う際、位次(位階の序列)によるのか、または官秩(官職の序列)によるのかという議論が散見する。こうした記事を考える上で参考になるのが、行立次第の序列基準である。
 本報告では、まず行立次第の変遷について確認した。行立次第の基準によれば、令制下は位次により、同位階の場合、五位以上は授位先後による。しかしながら、9世紀になると、参議以上の議政官は区別され、同位階の中で優越させる傾向が生まれる。
 次に、官人序列の議論が見受けられる事例を取り上げ、どのような序列認識を反映しているのか検討した。たとえば、藤原道長の任太政大臣儀において行立の序列が問題となった。その際、藤原実資は「今日、官職に依りて標に立つ。叙位日、位の標に依りて立つ」と述べ、位次よりも官秩を優先する序列を示した(『小右記』寛仁元年十二月四日条)。叙位儀は位階を媒介に天皇を頂点として個々の官人を等級づけ、序列する。一方、任大臣儀において、位階よりも官職の序列が重視されたことは、天皇と個々の官人の人格的な序列から、天皇を頂点としつつも国家の機構を媒介とする序列に転換する認識が生まれていることを反映している。

発表者:加藤 友康(日本史学専修・教員)
日本古代の儀式空間における「下座」と「動座」
Geza and Doza in ritual space of Ancient Japan
by KATO Tomoyasu

【報告要旨】
  日本古代、とくに奈良時代から平安時代における官人序列の研究は、これまで主として叙位記事をはじめとして複数官人が記載された文献記載での配列順や、儀式における参列者の列立順の検討を中心として進められてきた。今回の報告では、このような「動かない=静的」な配列順からの検討とは別に、「人ノ相対スルヤ自ラ相敬スルノ礼アリ、以テ貴賤ヲ判シ」(『古事類苑』礼式部・敬礼上 総説)とされる官人同士が相対した際の「動く=動的」な側面に注目したい。儀制令から延喜式へ、そしてその後の摂関期の古記録にあらわれる「下座」と「動座」という行動様式のありかたをもとに、官人序列とこの序列に対する意識構造の変遷を、儀式=政務が執り行なわれる空間(「場」)とそこでの舗設(「場」の舞台装置)に着目しながら検討を加える。儀式=政務が執り行なわれる「場」としては、政務形態の変化に応じた朝堂から内裏空間や外記庁をはじめとする各曹司へと重心が移動することを念頭に、参画する官人構成の変化とそれに応じた舗設の変化も考慮しながら、この問題の検討を進めることにしたい。

2013年10月11日(金) 【共通テーマ】新羅と高句麗の碑文
発表者:橋本繁(早稲田大学・非常勤講師)
6世紀の新羅碑文の研究
Research on Stone Monument of Silla新羅 Dynasty in 6th Century
by HASHIMOTO Shigeru

【報告要旨】
 残された文献史料の少ない古代朝鮮史研究において、当時の実態を伝える金石文は、貴重な根本史料となっている。特に、「律令」の頒布、仏教の公認、領土の拡大など目覚ましい発展を遂げた新羅の6世紀代には、数多くの金石文が残されている。しかも、2009年に浦項中城里碑が新たに発見されるなど、継続して新たな碑文が出現している。こうした碑文の研究を通じて、文献史料からは全く不明であった、新羅王京の支配共同体である六部の実態、官位制度の変遷、地方制度など、多くの研究成果が得られている。
 本報告では、まず、6世紀の新羅碑文にはどのようなものがあるかを概観する。そのうえで、報告者の近年の研究を中心に、碑文から何を明らかにしうるかをみていく。また、近年、6世紀半ばの咸安城山山城木簡に関する調査、研究が進むにつれ、碑文との比較研究が可能になりつつある。木簡と碑文との比較研究の可能性についても論じていきたい。

発表者:吉村武彦(日本史学専修・教員)※
集安高句麗碑について
byYOSHIMURA Takehiko

【報告要旨】
  2012年7月29日に集安高句麗碑が発見され、2013年1月4日の「中国文物報」に碑文の釈文(140字)が公開された。そして、集安市博物館編『集安高句麗碑』(吉林大学出版社)の報告が公刊された。その碑文釈文(156字)は、

□□□□世必授天道自承元王始祖鄒牟王之創基也
□□□子河伯之孫神靈祐護蔽蔭開国辟土繼胤相承
□□□□□□烟户以此河流四时祭祀然而□偹長烟
□□□□烟户□□□□富足□轉賣□□守墓者以銘
□□□□□□□罡□太王□□□□王神□□輿東西
□□□□□□追述先聖功勛彌高悠烈繼古人之慷慨
□□□□□□□□自戊□定律教□發令其修復各於
□□□□立碑銘其烟户頭廿人名以示後世自今以後
守墓之民不得擅自更相轉賣雖富足之者亦不得其買
賣如有違令者後世□嗣□□看其碑文與其罪過

である。
この10月に、集安博物館において石碑を実見し、発見地を調査する機会があった。徐建新さんの論文「中国新出“集安高句麗碑”試析」をもとに、この碑文を紹介したい。

発表者:河野正訓(考古学専修・研究推進員)
※吉村報告への補充報告
明治大学集安調査――映像利用による 
A Report on the Survey of Koguryo Sites in Ji'an China by Meiji University,using PPT. Picture
by KAWANO Masanori

【報告要旨】
  2013年9月に実施した吉林省集安一帯の高句麗関係の碑刻(好太王碑・集安高句麗碑)と墳墓(積石塚など)・遺跡(丸都城など)調査について、主に調査映像(PPT)を用いて報告した。

2013年9月27日(金) 【共通テーマ】唐代文字史料
発表者:石野智大 (アジア史専修・院生)
武周村落制度史料の復原的研究―永清県文化館蔵「金輪石幢」の実見調査をもとに―
The Restoration of a Historical Document about Village-system in the Wuzhou Period China:Focused on “Jin-lun-shi-chuang” Stone Pole Owned by the Museum of Yongching Prefecture in China
by ISHINO Tomohiro

【報告要旨】
 中華人民共和国河北省廊坊市永清県には、武周聖暦2年(699)の紀年を持つ「金輪石幢」と呼ばれる石刻史料が現存する。本史料は武周時期の村落制度の一端を伝える稀少な石刻史料である。早くは明清代文献にその存在が記録されたものの、録文は清乾隆44年(1779)の『乾隆永清県志』附載「永清文徴」に残る一点のみであり、実物写真や拓本写真も公開されていない。したがって、本史料の内容をみる際には、主として明清代文献に依拠せざるをえなかった。しかし、従来の文献記載や録文にも多くの不備があったことから、本史料はすでに利用困難なものになっていたのである。そのため、報告者は所蔵先である永清県文化館において本史料の実見調査を行い、明清代の文献記載の再検証を試みた。
 本報告では、まず本史料に関する文献記載を総体的に取り上げ、その中から現在では知ることのできなくなった早期の史料情報を取り出す。次に、明清代文献から得られた史料情報と実見調査の結果を併せみることで、従来の文献記載が抱える問題点を解消し、本史料の武周刻字部分を復原する。最後に、これらの検討結果を踏まえて、本史料中にみえる村落制度の内容に論及したい。

発表者:金木利憲(日本文学専攻・院生)
『白氏文集』の歩んだ道――環日本海の文物

by

【報告要旨】
  『白氏文集』は、中唐の詩人にして官僚、白居易(字は楽天、772(大暦7)年~846(会昌6)年?)の詩文集である。彼の作品は、存命中から評判を取ったようであり、「白氏集後記」に白居易自身の言葉として「両京人家伝写者、不在此記」とわざわざ言及があるほどである。日本に於いては非常によく読まれた作品集であり、文学への影響は計り知れない。中国では唐代には写本、宋代以降には版本として流布し、日本では写本・版本ともに流布し、朝鮮半島においては銅活字・木版(整版)の版本が製作された。日本海を囲む三国全てで伝存本があるのである。
 『白氏文集』は、中国に於いて、写本から版本になる際に本文テクスト・編成に改変を受けている。それは日本・朝鮮にも影響を与えた。
 伝本の一本に、那波本というものがある。江戸時代初期、1604(元和4)年に日本で作られた、木活字本である。この本は、本文テクストが版本のもの、編成が写本時代のものという、際だって変わった特徴をもつ。そして、本文テクスト・編成ともに、朝鮮の整版本に同一と言っていいほど近い。本発表では、那波本『白氏文集』を軸に、日中韓の文化交流の一端を解き明かすことを試みたいと思う。

2013年7月12日(金)
発表者:尹 在敏 (韓國漢文学・日本文学専攻客員教員)
才子佳人小説の出会いの空間とその意味
The Space of Encounter in the Scholar-Beauty Romance and its Meaning
by YOON Jaemin

【報告要旨】
 才子佳人小説とは、才子と佳人の恋物語を主な内容とする一群の小説を指す言葉である。多くの場合、捩じれたり逸れたりする恋の過程で小人物が登場し、二人の仲を挑発し攪乱する様が描かれる。この才子佳人小説には中篇と長篇の二種類がある。中篇才子佳人小説は中国元時代に発生して明時代に集中的に出現した。長篇才子佳人小説は清時代に流行した。東アジアの才子佳人小説では作中の人物達が通俗的な欲望の保持者として登場して、作品空間を欲望のぶつかりの場として作り上げる。ここで欲望のぶつかりの場を引っ張っていく基本原理は通俗的な勧善懲悪の論理である。
 このような才子佳人小説に登場する人物達の作り上げた空間が、欲望のぶつかりの場として描かれている事の含意は如何なるものであろうか。この空間を引っ張っていく勧善懲悪の原理はどのような文学史的背景の下で登場し、その審美的本質は如何なるものであったのか。このような問題を究明する事で東アジアにおける才子佳人小説の性格を再照射したいと思う。

2013年6月28日(金) 【共通テーマ】古代信濃:考古学と古代史から
発表者:河野正訓 (考古学・研究推進員)
古墳時代列島周縁地域における首長の動向
Trend of the Chiefs in the Surrounding Area during the Kofun Period, Japan
by KAWANO Masanori

【報告要旨】
 古代学研究所に所属する発表者は、現在「日本列島の文明化を究明する古代学の総合化研究」のサブユニット1「列島文化の中心と周縁」プロジェクトに参加している。とりわけ、列島周縁地域における古墳時代地方首長の動向を解明するため、昔明治大学考古学研究室で発掘調査をした長野県長野市大室古墳群を素材に研究を進めている。
 この大室古墳群はかつて、積石塚や合掌形石室といった特殊な墓制ゆえに渡来系集団とのかかわりの中で理解されてきた。最近では在地の集団が積極的に新来の文化を採り入れたという解釈に傾きつつある。しかしながら、大室古墳群内の遺構や遺物を再検討すると、従来の理解とはやや異なる首長の性格を垣間見ることができる。
 本発表では、最新の研究動向や現在整理作業をしている所見をふまえて、大室古墳群における地方首長の具体的な性格について位置づけたい。

発表者:須永 忍(日本史学専修・院生)
古代史からみた信濃
The Shinano Region in Ancient History of Japan
by SUNAGA Shinobu

【報告要旨】
  本報告は、信濃国(現長野県域)に相当する信濃地域を、古代史の観点から検討することを目的としている。しかしながら、信濃地域に関連する文献史料は少なく、古墳や出土文字資料などの考古学的成果との連携が必要となる。
 古代における信濃地域研究の論点は多岐にわたるが、古墳時代の考古学研究者(河野正訓氏)との協業をふまえて、4世紀から7世紀をターゲットとし、舎人の供出・馬の産出・信濃地域を支配した科野国造などの問題を設定した。
 本報告においては、先ずこれらの論点の研究動向を確認した後、東国の軍事的特質について言及し、この東国に属する信濃地域を検討することは、東国の特殊性を理解する一助となり得ると指摘した。
 その上で、弥生時代以来、複数の文化圏に分かれていた信濃地域が、東山道ルート上の軍事的に重要な舎人・馬の一大供給地として、一つの地域にまとめられていくプロセスを考えた。加えて、5世紀以降の信濃地域において、信濃地域を一元的に支配できる有力首長層が存在しないことを確認し、国造制が機能していなかった状況を考えた。科野国造の地位も、一つの有力首長系列に限定されず、信濃各地域の首長層の間を移動していたと推測される。その後、7世紀代に北信地域のミヤケが日本海側の対蝦夷政策の拠点となると、北信地域の有力首長層に科野国造の地位が移動し、信濃国府・信濃国分寺などが造営されるなど、8世紀以降における信濃地域の中心地域となっていく。

2013年6月14日(金) 【文化継承学Ⅰ・Ⅱ合同開催】
発表者:池田喬(文学部哲学担当・教員)
誰が何をいかに継承するのか?――M・ハイデガーにおける文化と継承――
Who Inherits What and How? Heidegger on Culture and Heritage
by IKEDA Takashi

【報告要旨】
 「文化継承学」という学際知への試みに対して「哲学」は何を言えるのか、「文化継承学としての哲学」はいかにありうるのか。本講義では、この問いについて20世紀ドイツを代表する哲学者ハイデガーの思想を手がかりに考察する。(1)当時ドイツの思想界を牽引していた西南ドイツ学派の「文化哲学」は大正期の日本にも多大な影響を与えた。ところが、ハイデガーはこの「文化」概念を猛然と批判していた。(2)他方、ハイデガーは、「継承(Überlieferung)」の概念をその歴史哲学、あるいは哲学の歴史性のキーワードとして用いている。(3)通例の「文化」概念を廃棄しつつ「継承」の本来の意味を考えるハイデガーの営みからは、ありうべき「〈文化〉継承学としての哲学」を読み取りうる。この哲学の核となるのは、〈誰が何をいかに継承するのか〉についての構造的分析であり、この分析の基盤は〈人々は死んでゆくが世界は残る〉という単純な事実への洞察である。

発表者:氣賀澤保規(アジア史専修・教員)
中国唐代における「巡礼」の起源とその背景
The Origin and Historical Background of "Buddhist Pilgrimage" in Tang China
by KEGASAWA Yasunori

【報告要旨】
  平安時代の僧円仁(794-864)は、最後の遣唐使となる一行に加わって中国唐を訪れ、そのまま密入国者として現地に残り、838年―847年(45歳-54歳)の約10年間彼の地を旅し、帰国後『入唐求法巡礼行記』4巻を残した。ライシャワーは本書をマルコポーロの『東方見聞録』や玄奘の『大唐西域記』に匹敵する世界史的旅行記と高く評価した。
 彼はみずからの旅を「求法“巡礼”」と表現したが、その「巡礼」という宗教的(仏教的)な行動と概念は、中国史においていつごろ現れ、定着化するのであろうか。「巡礼」は「巡歴」とも表されるが、それは一時的にせよ、人々を現実の統治の枠組みから離し、非日常の環境(空間)に置くことを意味する。だがそのような移動をともなう「巡礼」行動は、農民を土地に緊縛する前提に立つ歴代王朝下では、到底受け入れがたいものである。
 そうした立場から見直すと、「巡礼」の登場は、じつは円仁の生きた時代よりそれほど遡らない唐の時代、それも8世紀半ばの安禄山の乱(755-763年)以後であったことになる。円仁はその様子を五台山という霊場への道すがらのこととして集中的に記録しているが、じつはこの五台山に近接した同時代の房山雲居寺という名刹においても、多くの「巡礼」者の姿が寺に残る碑文からうかがえる。「巡礼」を生み出した唐代後半期は、中国史の大きな転換期であったことを物語っている。
 本報告では中国史における「巡礼」を取り上げるなかで、世界各地の「巡礼」の成り立ちや特色および思想性などに話題が広がることを願っている。

2013年5月24日(金) 【共通テーマ】日本中世文学の諸相
発表者:朴知恵(日本文学専攻・院生)
『平家物語』における剃髪
Tonsure in the Heike-monogatari
by PARK Chi-ye

【報告要旨】
 『平家物語』には多くの出家場面があり、さまざまな出家の様子を描写している。その中に髪を切る事によって出家に繋がっていく場面がしばしば見られる。髪を切ること、つまり剃髪は出家の作法である。出家作法の一部として行うのではなく、突如髪を切る事で出家に繋がる事が理解しがたい。本発表ではまず、「剃髪」がどのような作法であるかを確認したい。それから『平家物語』では「剃髪」をどのように描いているか確認し、『平家物語』における「剃髪」について考察したい。諸本は仏教色が濃いとされる延慶本を用いる。
 『大智度論』四十九には「我れ頭を剃り、染衣を著し、鉢を持して乞食す。此れは是れ憍慢を破するの法なり」とある。「出家授戒作法」では表白の後、「出家者和上問云。我今除汝頂鬚髪。許否答許三返 頂髪剃頌云」と記している。
 延慶本『平家物語』では髪を切ることで出家に繋がる場面が8例見られる。これは他人から髪を切られて出家する、自ら髪を切って出家する、に分けられる

発表者:牧野淳司(日本文学専攻・教員)
金沢文庫本『随聞記』について
On the Kanazawa Bunko Version of the Zuimonki
by MAKINO Atsushi

【報告要旨】
  金沢文庫に保管される『随聞記』は南都興福寺の学僧、真興(934~1004)の著作で、十世紀第4四半期の成立であると考えられている。真興は法相教学に密教的な観法を取り入れて一乗成仏的な教学を成しており、中世法相宗の先駆者と見られる一方、法蔵・仁賀の法流を継いで密教潅頂を受けて真言宗小嶋流の祖となった人物としても知られている。
 発表者は最近、金沢文庫保管『随聞記』が大変興味深い内容を持つことを報告した発表に接することができた。上野勝之「平安時代の十斎仏信仰―新出史料の紹介を兼ねて」(第3回 東アジア宗教文献国際研究集会、2013年3月16日)である。この発表で上野氏は十斎仏信仰の史料として『随聞記』を使用していたが、そのほかにも大変興味深い記事をたくさん持つことを紹介していた。発表者が特に興味を持ったのは、上野氏が列挙した記事のうち、「天狗神、仏法の行者が天狗道に堕し行者を妨げるとの天狗概念を明言する初見」と、「高僧伝承、相応の染殿后伝承の異伝」というところである。
 『随聞記』については、いずれ上野氏が全体像を紹介する論文を発表すると思われるのであるが、上野氏が簡略に指摘した内容がどのようなものであるのかが気になり、金沢文庫で紙焼き本を閲覧した。そこから得られた知見について発表したい。

2013年5月10日(金) 【共通テーマ】古代都城と門
発表者:井上和人(考古学専修・教員)
都城における門の実態-平城京を中心として-
Gates in The Capitals in ancient Japan
-The topic centers on Heijo-kyo capital site-
by INOUE Kazuto

【報告要旨】
 古代において、都城や地方官衙、寺院では、その施設や敷地の周囲を築地塀や掘立柱塀、回廊などで囲繞し、外部から遮断することが多い。門はその出入り口である。またその囲繞された官衙などの施設の格式や権威を外部に対して表示する荘厳施設、祭儀における着座の場、防御施設の機能を果たしている場合もあった。
 日本律令には、都城の門として京城門、宮城門、宮門、閤門などがあり、宮内官衙の門や京内居宅の門も合わせて、これまでの発掘調査でそれぞれの状況がある程度明らかにされている。また施設・敷地の区画施設についても調査研究成果が蓄積されつつあるものの、まだ総合的理解が十分とはいえない。ここでは都城の門について、その遺跡の実態、すなわち近来の発掘調査で判明している事実関係を中心に紹介し、従来の通説的理解とは異なるいくつかの注意すべき点を指摘するとともに、そうした作業を通じて見えてくる、古代国家構築過程における唐の都城形制との関わりについての考究を試みる。

発表者:鈴木裕之(日本史専修・院生)
人々の移動と門
―籍禁制・門籍制と治安維持の関係において―
Relationship of the gate and movement of people
―About System passing through the gate―
by SUZUKI Hiroyuki

【報告要旨】
 本報告の課題は「古代都城と門」を共通テーマとして、古代都城における門の役割について分析することである。その素材として、籍禁制(中国)と門籍制(日本)を取り上げた。皇帝・天皇を中心に据えて建造された古代都城において、人々の移動を管理することは治安を維持するうえで重要な課題であった。そのため、中国では籍禁制が、日本では門籍制が施行された。籍禁制・門籍制は、本司が所属する官人の「便門(出入りに都合の良い門)」一覧を作成し許可を得た後に門の通行ができるというシステムである。この制度に違反し、「入るべからざるして入る」者は闌入罪に問われた。このようにして、古代都城は門を介して不審者の侵入を未然に阻止する制度を規定した。
 藤原宮・平城宮・紫香楽宮などから門籍木簡が出土しており、門籍制の実効性が確認される。また、格による改訂などを経つつも、門籍制は延喜式に継承されていく。さらに、三善清行『意見封事十二箇条』にも門籍のことが書かれることからも、門籍制の存在が当時の官人にとって当然のものとして意識されていたことが窺える。
 籍禁制・門籍制の施行は、皇帝・天皇の身辺警護において重要な役割を持った。換言すれば、古代都城における門が、空間的に内外を分けるのみならず、犯罪を未然に防ぐ役割を担っており、治安維持の観点からも重要な存在であったといえる。

2013年4月26日(金) 【共通テーマ】古代日本と東アジアにおける「日本」の理解をめぐって
発表者:神野志隆光(日本文学専攻・教員)
「日本」の由来について
On the Origin of “Nihon”日本
by KOHNOSHI Takamitu

【報告要旨】
 「日本」の由来について、わたしの考えるところは、小著『「日本」とは何か』(講談社現代新書、2005年)につきる。今回、いわばその補足として、以下の4点について述べたい。

1、祢軍墓誌の位置づけ。
 小著の段階では、祢軍墓誌は知られていなかった。この新たな資料は、わたしの考えを補強してくれるものであった。
2、国号としてとらえることへの批判。
 この墓誌をめぐって、いっそうあきらかになったが、「日本」を王朝名としてとらえることなく、国号を論議することは正当ではない。
3、東アジア世界において見ることの歴史感覚。
 あえて歴史感覚というが、朝鮮との関係を云々する論の認識については首を傾げざるを得ないものがある。
4、用例を見る立場。
 漢語としておかしいといったごとき、思いこみだけでなされる発言は看過することができない。

2~4は、この大学を会場としておこなわれたシンポジウムでなされたものに対して思うところがあって、ここで取り上げる。

発表者:氣賀澤保規(アジア史専修・教員)
百済人「袮軍墓誌」と“日本”と660年代の東アジア情勢
"The Epitaph of Mi Jun" of Baekche, "Nihon" (Japan), and the International Situation in East Asia in the Decade of the 660s.
by KEGASAWA Yasunori

【報告要旨】
 2011年9月、中国西安に出土した百済人「祢軍墓誌」(678年)が紹介され、そこに「日本」の言葉があったことをきっかけに、「日本」の国号問題が改めて意識されることになった。だがこのような新史料になると大いに盛り上がるべき史学界が、この問題では結果として全体に腰が引け、ややもすれば極力「無視」しようとする印象が拭いきれない。何故であろうか。
 「祢軍墓誌」は誌石と蓋のセットからなり、誌石の大きさは59×59×10cm、満行30字×31行、計884字の整った楷書で記されていた。墓誌としては外見も中身も上級の部類に属する。袮軍本人は660年の百済の滅亡で唐に降った旧百済高官であり、その後は半島支配をめぐる唐朝の尖兵役、調整役を務め、最後は唐の高官として長安の私邸で儀鳳3年(678)2月19日に亡くなり、同年その南郊の墓地に埋葬された。享年66歳。そして「日本」の語は、彼が唐側の人間として動くなかで現れた。
 この「日本」理解をめぐって、日本研究者の側からただちに強く出されたのが、これは“国号”としての「日本」を指すものではないという見解である。国号「日本」は、701年に制定された「大宝令」によって定まり。703年の粟田真人の遣唐(周)使において則天武后(則天皇帝)から認められた(改めて与えられた)という鉄案があるからである。その結果、その「日本」とは国名ではなく、中国からみて東方の地全般(朝鮮半島や倭など)と解すべきである、さらに百済を意味するとまで断定される。
 だがそう決めつけることで「日本」理解は終わりとしてよいだろうか。墓誌が語りかける時代と中身は、百済の滅亡に始まり、663年の白村江の戦いと倭国(日本)の敗北撤退、ひき続く国際交渉、668年の高句麗の滅亡などとつづく660年代の東アジアである。660年代はまさしく、東アジアの国際関係の一大転換を迫った大変かつ深刻な時期であった。そうした時代状況に丁寧に向き合うとき、その「日本」はもう少し違った意味あいを帯びてくるように感じられる。本報告では改めて墓誌の内容を見直し、そこを手がかりにもう一歩踏み出した解釈の可能性はないかを模索してみたい。