更新日2016/02/12

Cultural Heritage Studies

 

   文化継承学Ⅱ 2015年度 年間プログラム

2015年度に行われている文化継承学の発表リストです。
随時更新して行きます

 

報告日

報告者

タイトル

 

 

2015
4
24

熊谷知子

小山内薫の宗教信仰とその時代―『第一の世界』(1921)にみる心霊主義的傾向を中心に―

Kaoru OSANAI’s religious faith and the Taisho era:

-His tendency of spiritualism in Daiichi-no-Sekai(1921)-

 

【報告要約】本発表は、小山内薫(18811928)の戯曲『第一の世界』を、彼の宗教信仰および心霊主義的傾向が上演に結実したものとして捉え直すことを目的とした。小山内薫は、キリスト教のほか、巣鴨の至誠殿や大本教といった新興宗教に接した。これらの信仰生活はいずれも一時的なものであったが、小山内は生涯を通して宗教信仰および心霊主義に関心を持っていたと思われる。大正という時代に、新興宗教や心霊主義は小山内のみならず、多くの知識人や青年たちを魅了した存在であり、演劇においても関係が浅くなかった。

しかし、小山内のこうした側面は、「新劇」運動の低調期における彼の弱さや矛盾を体現するものとして認識されてきた。小山内自らが巣鴨の至誠殿や大本教における信仰について触れた著作は全集の類に収録されておらず、彼の宗教信仰や心霊主義的傾向が、いかに創作活動に反映されていたかという点については十分に顧みられてこなかった。今回取り上げる『第一の世界』は、大正10年(192112月、帝国劇場で二代目市川左団次一座によって上演されたが、その前月、小山内は新派で上演された賀川豊彦の『死線を越えて』(真山青果脚色・伊井蓉峰主演)の舞台監督も担当している。『死線を越えて』は、キリスト教徒である賀川の自伝的小説であり、当時のベストセラーであった。また、同じく大正時代に多く読まれた倉田百三の『出家とその弟子』も、この12月に山田隆弥によって演じられるなど、宗教色の濃い作品が多く上演された時期であり、その風潮の一端として小山内の『第一の世界』を位置付けたい。

酒井晃

富士高校放火事件が語りかけるもの―同性愛冤罪事件を中心に―

 

【報告要約】本報告は1973年に発生した富士高校放火事件について取り上げた。事件は警察がある容疑者(A)を拘束した際、同性愛を理由とした強請によって誤認逮捕された。裁判では無罪を訴えるための市民運動が展開された。Aは被差別部落、定時制高校など社会的に劣位に置かれた立場であったが、市民運動側はAの出自や社会的地位の不当性を訴え、活動をおこなった。だが、同性愛に関する事柄は一部の当事者の間で語られた以外では深められなかった。

合田正人先生

干瀬の解釈学――井上哲次郎・西田幾多郎・伊波普猷 (Hermeneutics of fringe. Inoue, Nishida, Iha

 

【報告要約】昨年度の発表で、発表者は井上哲次郎と伊波普猷とのごく小さな接点を手がかりに当時の日本人論の文脈のなかで二人の思想家がどのように関わりえたのかを考えてみた。今回はそこに西田を加え、西田の『善の研究』、井上の『国民道徳概論』、伊波の『古琉球』の思想的同時性を、「縁暈」(フリンジ)の観念に注目しながら考察した。そのことによって、西田が井上の「現象即実在」論の継承者であったこと、そこに「体系」と「場所」をめぐる西田の困難な思索が見られること、更には、井上と西田における「縁暈」の観念を伊波における「干瀬」の観念につなげることができること、これらの点を仮説として提示することができたように思う。

 

 

58

 

花岡敬太郎

一九七〇年代初頭のヒーローの「正義」と戦争の記憶 「仮面ライダー」シリーズを中心に

 

【報告要約】本報告は、戦後のヒーロー番組の変遷を通して、同時代日本における「正義」の価値基準と戦争の記憶との関わりを測っていくことを目的とした。「仮面ライダー」シリーズを考察軸に、ヒーロー番組が隆盛を誇った一九七〇年代前半を分析の主対象とした。「仮面ライダー」シリーズは、番組プロットや制作者の関心の変化に合わせて主に悪役の立ち位置や設定上の出自を微妙に変化させてきた。具体的には、戦争体験に基づいた嫌戦観をナチスに模して象徴させたショッカーに始まった悪の組織が、シリーズを下るについて戦争との関連性を希薄化させていったことを論証した。本報告は、これを促したのが同時代を生きる人々の思考様式の変化であると仮定することで、同時代日本における人々のものの考え方に、戦争の記憶がどのように関わっていくかを把握していこうという試みである。

 

 

豊川浩一先生

近世ロシア帝国の誕生

「啓蒙の世紀」における探検から民間習俗の規制まで

 

【報告要約】本報告は、現代ロシア人のアイデンティティの源泉(あるいはその問題点)を探ることを目的に、18世紀の探検(学術調査旅行)を中心的な主題として取り上げながら、1730年代のロシアの国家や社会を論じる。この時代は、ピョートル一世が死去し、エカチェリーナ二世が即位する間の、旧ソ連史学やロシア史学では「宮廷革命」あるいは「貴族反動」として否定的に捉えられてきた時期でもある。この時代を、同時代のヨーロッパとの共時性やロシア史上における通時性に注意を払いながら考察する。1730年代のロシアは、特徴的なことにピョートル時代にも増して外へ向かう動きと、内に向かう動きとを活発化させた。前者はベーリングの探検に代表されるものであり、後者は民間習俗に対する禁止令を含むさまざまな国内規制である。報告は、両者を近世ロシア国家が試みた新たな空間認識の模索として大きく捉え、いわば近世におけるロシア(人)自身を発見し創造するための一連の動きとして構想している。とはいえ両者を平面に並べて十把一絡げ的に考えようとしてはいない。報告者が従来から考えているバシキール人の歴史をロシア史全体との関係で考えるとどのような位置づけが可能なのかという問題設定の延長線上にある。それゆえ18世紀におけるバシキール史およびロシア史を交差させ、かつ両者の転換点の一つと考えられるオレンブルク遠征を中心に考えようとしたものである。これを世界史上の「啓蒙の世紀」という枠組みのなかで、とりわけキリーロフのオレンブルク遠征を考えている。また同じ「探検」も外に向かうだけではなく、ロシア人社会内部へと向かう探検もあったのではなかろうかと考えて国内の問題にも目を向けている。その「探検」から浮かび上がるのは、後のロシアを規定するアジアとヨーロッパ、あるいは近代と伝統との「異種混淆性(ハイブリディティ)」という特徴であろう。

 

                        文化継承学・合同授業
 

522

井上和人先生

ベトナム・ハノイ・タンロン皇城遺跡の宮殿遺跡

-発掘調査研究と国際協力-
 Vietnum-Hanoi-Thang Long Citadel Site

Archaeological research and International cooperation

 

【報告要旨】2002年から2003年にかけて、ベトナムの首都ハノイの中心地で、国旗議事堂などの政府中枢施設建設に伴う発掘調査が行われ、大規模な宮殿遺跡が姿をあらわした。従来から歴代王朝の王宮が存在したと考えられていた場所であり、その壮大な遺跡景観は見る人々を圧倒させるものであった。しかし、ベトナムの考古学界のそれまでの学術的経験の中には、このような大規模かつ歴史時代に属する遺跡の調査研究そして保存の手法の蓄積はきわめて乏しかった。わが国は、当時の小泉純一郎首相の決断にもとづき、政府として、この宮殿遺跡-タンロン皇城遺跡の調査研究、保存活用に関して、ベトナム側と共同事業を推進することになった。以後すでに10年を経過したが、その間、2010年にはこの遺跡は世界文化遺産に登録されるなど、多くの成果を上げてきた。しかし、同時に、すくなからぬ問題点も現出し、また今後にいくつかの重要な課題も残されている現状にある。

井上は、この事業に当初から関与してきたのであるが、宮殿遺跡研究のダイナミックなありようとともに、国際研究協力の一事例としての実情を報告する。

井戸田総一郎先生

文学するニーチェ― 模倣と創造・継承と断絶

Nietsches philologischer Anspruch Imitatio und Creatio, Uberlieferung und Bruch

【報告要約】ニーチェはザクセン公国のエリート高等学校シュール・フォルタで徹底した古典語修得に努め、ボン大学・ライプツィヒ大学においてフリードリヒ・リーチュル教授のもとで古典文献学を専攻、同教授の強い推薦により25歳でバーゼル大学古典文献学教室の員外教授に就任している。この講演では、古典語との深い関わりのなかから、ニーチェの独自の文体意識が形成され、文体そのものが文化継承の中心問題になって行く過程と様相を紹介する。特に「パロディア」(ニーチェは古典ギリシャ語の語源で意味でこの概念を用いている)の実践の一端を、詩『ゲーテに寄す』を事例として紹介するとともに、散文と詩文の緊張した関係を示す一事例として『ヴァーグナーの場合』を取り上げる。「形式・音調・言葉」という文体の「表層」に留まることの重要性をニーチェは繰返し主張しており、その意義について考えて行きたい。 本年10月にドイツ・ナウムブルクのニーチェ研究センターにおいて、ニーチェの詩作を中心テーマにした国際シンポジウムが5日間にわたって開催される。井戸田は基調講演の一つを担当することになっており、本発表はその一部を含むものである。

 

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ショーン・ニコルソン 違式?違條例俗解本の振假名 

Interlineal Glosses in Explanatory Handbooks of the Ishiki-kaii J?rei (Customs Control Regulations)

 

【報告要約】違式?違條例は、明治5年に公布された、明治15年の刑法制定までの間の軽犯罪の取締規定であるが、その文面がすこぶる難解なものであったため、20種以上の俗解本が刊行され、大いにこの條例の理解の助けとなった。この資料群から明治11年に刊行された『違式?違図解』と『違式?違條例註解』をとりあげ、これらの二冊に施された振假名の実態を調査した。現在と異なり、これらの資料は本行の文字列の右にも左にも振假名を付している。本行「投棄」の右に「とうき」、左に「ホカシステル」が付せられているような多様な振假名つかいを呈している資料である。『日本国語大辞典(第二版)』を基準とし、全例を「よみ」のものとそうではないものに分け、資料の特性の記述を試みた。

 

 

落合 修平

芥川龍之介の文芸観覚え書

A note on Akutagawa Ryunosuke's Literary View

 

【報告要約】「芭蕉雑記」で芥川は芭蕉俳諧の特色として「目に訴へる美しさと耳に訴へる美しさとの微妙に融け合つた美しさ」を挙げる。そこで例示された「春雨や蓬をのばす草の道」の句に見られる幾つかのモチーフは、井川恭宛書簡(一九一四・三・一九)にある叙景文と近似している。移り変わる季節の叙景はその「眼に訴える美しさ」の内に旋律的な運動性を孕んでいる。また、「あの頃の自分の事」ではピアノの演奏が「不思議に鮮かな画面を、ありありと眼の前へ浮ばせ」るものとして語られる。F・リスト「水の上を歩くパウラの聖フランチェスコ」の浮び上らせた「明い幻」には「波紋を作る人間の足が動いてゐた」という「足跡」の形象が見られ、それは「眼に見るやうな文章」で夏目漱石「永日小品」の「蛇」に見出したものにも通ずる。絵画的かつ音楽的でもあるモチーフ、形象への留意により、芥川のいう「詩的精神」の内実へ具体的に接近することはできないか。「蜃気楼」には、志賀直哉「焚火」の一段を模した鴉の蜃気楼を捉えた一場がある。意義深く差異化された二方へと隔たる実像と虚像の形象は、描かれてはいないいま一つの木札の行方を、あるいはいま一つの故国へと想像をめぐらす触媒となるのではないか。以上のように、芥川作品における形象について幾つかの素描を行った。

野田学先生

英国19世紀のメロドラマ:ブルックスのモラル・オカルトとスペクタクル

【報告要約】演劇としてのメロドラマがシリアスな研究にあたいする対象として立ち上がったのは Peter Brooks, The Melodramatic Imagination (1976) を嚆矢とするというのが一般的見解だろう。「モラル・オカルト」という語をキーワードに、フランス起源のメロドラマを、革命後の聖性が失われた社会においてける道徳性の演劇的顕現であると論じたブルックスの著作は、それ以前の Eric Bentley 等のメロドラマ再評価以上に魅力的な議論の枠組を与えたのだ。その後メロドラマ研究は、カルチュラル・スタティーズの方面から、地域と時代のコンテクストにおいて読み込まれるべき文化的・政治的プラクティスとして読み直しを迫られるようになる。本発表では、演劇としてのメロドラマ研究の道筋を、このブルックスのセミナルなメロドラマ論の紹介と、それへの反論とともに簡単に紹介した後、特にメロドラマ的世界観と視覚偏重主義との関係を探った。

 本論では、ブルックスが提示するところのメロドラマ的欲望を、歴史的に繰り返しうる一つのパターンとして捉えることができるのではないだろうかという仮説を提示したつもりである。ポスト聖性の時代における道徳的秩序の顕現をスペクタクルの消費と結びつける彼の論法は、もはや存在しないものを、かつては存在したものとして反復的に現出していくというものであり、その限りにおいていわば欠如神学の議論構成を取っている。この論構成は、ヴァルター・ベンヤミンのアレゴリー観と似通っている。ベンヤミンの言うアレゴリーとは、事物と名称とがもはや一致しなくなってしまった《堕落以後》の世界における表象形式だ。「トラウアーシュピール」と呼ばれる17世紀のドイツ・バロック悲劇は、《堕落以前》の事物/名称間の一致を、失われてしまった神話的状態として振り返りながらも、その喪失を同時に反復表象せざるをえない。かくして《堕落以前》の神話的境地を指し示すトラウアーシュピールの「華美な大詰め(アポテオーゼ)」は、「内部から変容して神々しいものとなることは決してない」(ベンヤミン)という意味で、象徴ではなくアレゴリーにとどまらざるをえないのである。同様のことが、メロドラマにおける大団円が提示するところの《美徳の勝利》についてもいえる。メロドラマ的大団円は、バロック的な「華美な大詰め」と同様に、《美徳の勝利》がもはやありえないことを、幻影の中で確認せざるを得ないのだ。スペクタクルという《視覚的商品》の消費が、またあらたな消費を呼ぶという資本主義的サイクルが生まれるのも、このように《美徳の勝利》の確認が、同時にその喪失の確認と結びついているからなのである。

 なお、本発表は、日本英文学会第87回大会(立正大学品川キャンパス 201552324日)シンポジウム第三部門「メロドラマの諸相」(5/23, 13:45-16:45)において野田がおこなったものと同じものである。

 

619

 

  
山本耕

ユダヤ人新聞l’Univers Israeliteの記名記事に対する量的調査

-ユダヤ系フランス人指導者レモン・ラウル・ランベールの1934年から1939年までの記事を中心に-

A quantitative survey of articles in the Jewish newspaper l'Univers Israelite

Articles of French Jewish leader Raymond-Raoul Lambert from 1934 to 1939

 

【報告要約】1930年代から1940年代にかけてフランスで国民的課題となっていた外国人問題。その原因のひとつであった中東欧出身の難民への対処方針を巡って、ユダヤ人指導者間で対立が起きていた。報告者の関心は、そうした指導者のひとりであったレモン・ラウル・ランベールが唱えた主張を分析し、彼が示した国家像やユダヤ人観の検討を通じて、20世紀前半のフランスにおける「同化」の様相の一側面について明らかにすることにある。本報告の目的は、ランベールが編集長を務め、自己の主張を展開する場となっていたユダヤ人新聞l’Univers IsraeliteUIの記名記事について量的調査を行い、そこから判明した事実を述べることにある。

 今回は、ランベールが執筆した記名記事タイトル及び記事数の把握のみならず、彼が執筆していた期間における全執筆者名と全記名記事数の調査を行った。その結果、UIの時期による記事傾向の変化、そのユダヤ系フランス人社会に対する影響力や購読者層の確認、そしてランベールの編集部内における位置づけなどが明らかになった。今後はこれを基に分析を行う。

 

鈴木杏花

太宰治「八十八夜」考――坂口安吾<FARCE>の呼び声――

 

【報告要約】

矢島國雄先生

探検と博物館

 

【報告要約】

 

 

 

73

犬飼智仁

レヴィナスにおける神話的なものの形象
Figure of the mythical in Levinas

 

【報告要約】哲学は、理性に基づいて普遍的な真理を探究する営みである。しかしながら、哲学者もひとりの人間であり、日常生活のなかで理性的な判断に常に基づいて行動しているわけではなく、様々な物語、臆見、「神話」を受け入れながら行動している。つまり、理性的な判断の手前で、あるいは意志的な行為の手前で、人間の意識を構成しているものが存在するということである。本発表のねらいは、エマニュエル・レヴィナスの哲学に登場する「神話」という形象を、ユダヤ的伝統、人類学的な文脈のどちらか一方に還元することなく、受動的な主体性の生成過程という観点から考察することである。レヴィナスが人類学者レヴィ=ブリュールの未開社会に関する研究に大きな影響を受け、自らの哲学的考察を進めたことはよく知られている。それに加えて、ローゼンツヴァイクの『救済の星』における、異教に関する考察も重要である。両者の思考は、レヴィナスの神話をめぐる考察に重要な示唆を与えたと思われる。レヴィナスは、一方で、神話をたんに理性的な真理の探究における低次の段階、あるいは乗り越えるべき段階としてではなく、哲学の出発点に密接に関わるものとして位置づけた。しかし、他方で、レヴィナスにとってユダヤ的なカテゴリーを記述することは、若いころからの課題であった。神話概念とユダヤ的なものは対立するものであり、これらの概念によってレヴィナスの哲学は、還元的な読解を退ける奥行きをもっているのである。本発表では、このような概念の対立の意義についても考える。

 

伊與田麻里江

山東京伝「通俗大聖伝」の創作方法

 

【報告要約】黄表紙、洒落本作家として知られる山東京伝の読本初作とされる孔子伝『通俗大聖伝』は、読本と分類された上で、他の読本作品などを比較して低評価されている。本発表では、『史記評林』や『春秋左氏伝』を利用しつつ、どのように本作を創作しているか検証した。すると、孔子に関わる出来事の年次や、その内容について、諸書を比較しながら、どちらかの記事を取り入れたり、記事を並列したりして、より正当性の高い記述を心がけていることがわかる。この方法は、当時流行していた考証学の方法と同じである。また、序文の記述から、やはり当時ベストセラーとなっていた『経典余師』を意識して、京伝が、孔子の伝記をわかりやすく述べた学問書として本作を創作した可能性が高いことを示した。これにより、本作を考証書、学問書として再評価することができたと考える。

神山彰先生

逍遙の世紀末――『牧の方』と「みだれ髪」の時代――
Shoyo Tsubouchi in the end of the century

【報告要約】坪内逍遙の戯曲『牧の方』は、明治三十年(一八九七)に第一作刊行、明治三十八年(一九〇五)初演、大正六年(一九一七)改作、再演されている。その時間は、イプセンが最晩年の作品群を作った世紀末から日露戦争を経て、ロシア革命の時期に重なる。或いは、美術ではラファエロ前派からアールヌーヴォーの流行した時代であり、与謝野晶子の「みだれ髪」や「青鞜」の「新しい女」のイメージと連なる女優の輩出する時期でもある。牧の方は、逍遙がイメージしたマクベス夫人以上に、イプセンの『ヘッダ・ガブラー』の「人間の運命を左右する力を持ちたい」というファム・ファタールのイメージに重なる。今回は、当時の女性の髪型や舞台での「みだれ髪」の造型を通して、従来の「物狂い」から狂気への表現の推移を、逍遙の抱えていた不安やその意図を超えて表現したものを考えた。

 

 

717

白石 幸作

ルネ・シャールの詩学についての一考察

A study of René Char’s poetics

 

【報告要約】20世紀フランスの詩人ルネ・シャール(1907-88)についての発表・報告を行った。シャールはフランス現代詩の中でも大詩人のひとりとみなされているが、日本における知名度は決して高くない。今回の発表では、簡単な紹介もまじえながら、彼の作品において「詩」がどのようなものとして提示されているかという問題について考察した。第二次世界大戦中、シャールは対独レジスタンスに積極的に参加しており、戦後になって、レジスタンスの英雄にして、かつ詩人として名声を得ている。しかし、一般的にレジスタンスの詩人とされている他の者たちと異なり、戦時中、シャールは作品の発表を一切行わなかった。当時の彼の心境は同郷の友人フランシス・キュレル宛ての書簡に吐露されており、本発表でも参照した。その書簡には、戦争の時代に詩人としていかにあるべきかという問いについて、シャールの思想が記されている。彼の詩学を考察する上でも重要な一資料であり、その書かれ方も私的な書簡とはいえ決して易しいものではない。また、私的な書簡にとどまらず、シャール自身の手で公表され、作品集成の中に組み込まれているという点も重んじられるべきである。その内容を見ると、自然の持つ生命力への信頼のようなもの、いわば「生成」する力への志向を読み取ることができ、シャールの詩学と関わってくるだろうとの仮説を立てた。シャール詩における「生成」を重視するなら、ひとつのキーワードとして「不確かな」という形容詞が出てくるだろう。つまり、「生成」への可能性に開かれた状態である。彼の詩作品の中、あるいはインタビューの中の実例を見ながら、その点についての確認も行った。

 

雨宮 史樹

マス・メディアキャンペーンからみる1920年代初頭の新聞報道の機能ー白蓮事件を事例としてー

 

【報告要約】本報告は、1920年代初頭の日本における新聞報道の機能を描き出すことを目的とする。その際、白蓮事件に対する複数の新聞社の報道記事を分析した。具体的対象として、第1に宮内省と政治家への影響という視角。第2に白蓮事件の国外における反響に注目する。上記の視角をもとに同事件の新聞報道のもった機能を総体的に把握する。1について、白蓮事件は新人会出身者が虐げられた女性の解放という主旨で企画したマス・メディアキャンペーンであった。しかし、事件の拡大過程で各新聞社が独自の報道を行う時、その内容は既存の華族制度への異議申し立てというかたちで機能し、批判の矛先は宮内省へとむけられた。他方、宮内省内部は華族制度の動揺にとどまらず、天皇および天皇制という国家の支配構造の中軸自体の融解への危機感を抱く。これは、明らかに新人会出身者が当初企画した改造運動論理とは異なったベクトルで、マス・メディアキャンペーンの作用が帰結したことを意味し、その様相は極めて多面的であった。2の事件の国外への反響について、上海の「新しい婦人」と朝鮮における羅蕙錫の事例をもとに概観した。そこでは「大正デモクラシー」思潮の一つの典型である白蓮事件が、他の思潮や思想と同様に国外に連鎖していった様子を確認できる。

宮越勉先生

敗戦後の志賀直哉―「灰色の月」を読む―

【報告要約】志賀直哉は、敗戦後、岩波書店の総合雑誌『世界』創刊号(昭和21年1月)に、「灰色の月」をその「創作」欄に発表した。「灰色の月」はその全集・文庫本で僅か4、5頁ほどのごく短いものであるが、決してお手軽な随筆的な作ではなく、実際は志賀独自の集注力で作品に立体感や丸味を出そうとした入魂の作であった。その同時代評、その後の研究者サイドによる先行研究を踏まえると、未だに、作中の「私」=作者志賀として、また、典型的な私小説として読まれてきた印象を拭い去ることができない。だが、残されている二種類の草稿作と定稿作とを綿密に比較検討してみると、そのデテールにおいて、デフォルメ(たとえば、題材となった出来事のあった昭和20年10月16日の夜の「月」は天候がよく「白い月」だったはずなのをその内容にマッチするように「灰色の月」と改変している)や種々の潤色があり、作中の「私」なる人物さえ老齢の文壇の大家志賀直哉とイコールとは読めないような配慮がなされていたことに気づくのである。なるほど作中の「私」に焦点化されて描かれているが、「私」は敗戦後の間もない山手線の電車に乗り合わせた一乗客に過ぎず、他の乗客たちと同様に、乗り合わせた餓死寸前の少年工を哀れと思いつつも何もしてやれない状態にあったのであり、この作品は、志賀得意の対照描法で、食糧問題をはじめとしてこれから先の日本の見通しがまったく立たない暗い現状を描いた日本の敗戦後第一級の名作であった、と読むべきだとしたのである。

 

 

 

 

102

白石 幸作

ルネ・シャールの詩集『ただ留まる』について

A reading of René Char’s Seuls demeurent

 

【報告要約】本発表・報告では、フランスの詩人ルネ・シャール(1907-88)の詩集『ただ留まる』を扱った(発表時とは、詩集タイトルの日本語訳を変更したことを付記しておく)。いくつかの詩作品の翻訳を試みながら、詩集全体の構成、執筆時期、背景を問題にしている。第二次世界大戦中、レジスタンスの一闘士として活動していたシャールは、同時に詩人としては沈黙の期間に入り、作品発表を自らに禁じていた。19448月のパリ解放以後、詩人シャールは雑誌への詩の発表を再開し、452月、ついに詩集『ただ留まる』を出版する。内容は三部に分けられており、それぞれ、「世界以前」、「婚礼の顔」、「形式的分割」というタイトルがつけられている。今回は、大半が散文詩として書かれている「世界以前」を取り上げている。そこにまとめられている詩作品たちが書かれた時期や背景に関して、今現在判明していることを確認し、今後の研究課題を掲げた。各詩作品の執筆時期を列挙してみると、「世界以前」は、ほぼ書かれた順に詩作品が並べられていることがわかる。また、シャールの友人の名が登場するものもある。それぞれの詩作品に、当時のシャールの体験が詩的な方法で刻印されているという、いわば自伝的な側面を持っている。難解な現代詩といえど、伝記的アプローチの可能性はあると思われる。なお、執筆時期を知るには、ジャン=クロード・マチュー氏による研究を参照することになる。また、執筆当時シャールが詩人として最も親しくしていたのは、同じく詩人であり、サド研究者としても有名なジルベール・レリーであった。シャールはレリーと詩によって結ばれた家族あるいは兄弟のような親密な関係にあり、今後、戦時中のシャールの詩作や詩集『ただ留まる』の創作過程について考察するには、二人の交流を押さえておくことが重要であるという点もあらためて指摘した。

 

 

合田正人先生

現象学における中国と日本~メルロ=ポンティ、マルディネ、レーヴィット、アンダース
La Chine et le Japon pour les regards phénoménologiques. Merleau-Ponty, Maldinay, Löwith, Anders

 

【報告要約】今回の発表では、メルロ=ポンティの「どこにもあり、どこにもない」における東洋、特に中国への言及を出発点とし、それを、メルロ=ポンティが愛した詩人・戯曲家・政治家ポール・クローデルの中国論、日本論と結びつけたうえで、一方では、その流れを更にアンリ・マルディネとフランソワ・チェンとのつながりへと辿り、他方では、日本への滞在経験を持つレーヴィットの日本論、次いで、原水爆禁止運動に連なることで日本を訪れたギュンター・アンダースの広島・長崎論に言及することで、フッサール、ハイデガーの教えを受けた者たちにとっての中国・日本像を浮き彫りにすることを試みた。

 

 

1016

竹ヶ原 康佑

文久期における仙台藩内政争の争点と「割拠」策への展開

 

【報告要約】本報告は、幕末政局において朝・幕・藩を中心とする複数の政治勢力が接触する際、公職(官位・官職)および客観的特色を論拠に相互の行動の正当性の是非を規定する関係を〈公的な相互関係〉と仮定した上で、東国最大の大名である陸奥国仙台藩(伊達氏六二万石)がどの様な政治姿勢にもとづいて上述の関係を藩外勢力と構築していくこととなったのかについて考察を試みるものである。具体的には文久期(一八六一~六三)に重臣層間にて展開された政争および政変「一月政変」の政策面での争点に着目する。同政変は平重道氏の研究以来、親幕・親朝両意見の対立および前者の勝利に帰結したものと解釈され、概して争点自体は検討の俎上に上らず、その特質や意義が十分には解明されない状態が続いている。そこでかねてより藩内の重要課題であった海防強化・軍制改革および十九世紀政治社会において政治行動の正当性を担保する概念として浮上した由緒論や公職(特に武家官位)の役割に対する理解をめぐる問題を前提に、勝敗双方の視点から同政変を再検討し、そのインパクトおよび以降の藩の動向に及ぼした影響を分析する。特に政争の争点を、観念的次元ではなく具体的な政策論争・自己認識論争として捉え直すことで、仙台藩主脳部はいかなる〈公的な相互関係〉構築を企図していたのかについて検討を試み、最終的に「割拠」策に帰結する同藩の姿勢の周辺状況を明示することを目指したい。

 

 

ショーン・ニコルソン

明治10年7月10日の『かなよみ新聞』のルビ

Glosses of the Kana-yomi Sinbun of October 7th, 1877

 

【報告要約】 『かなよみ新聞』(『假名読新聞』とも)は明治初期に発行された大衆向きの小新聞である。明治8年に創刊され、明治13年の1400号を以て終刊した新聞であり、同じ時期の『讀賣新聞』と『東京絵入新聞』(改題多数)と合わせて小新聞の代表的な三紙としてかぞえられる。「小新聞」はまた「傍訓新聞」と呼ばれ、数字や相場をのぞき、ほとんどの漢字にルビがついていることがその最大の特徴であり、明治時代のルビをみる際に、看過できぬ資料である。本発表は明治10年7月10日の『かなよみ新聞』のルビの全数調査の報告と分析からなる。たとえば「むすめ」というルビ文字列に対応する本文の漢字文字列(以下、「本行」とする)は通常の「娘」のほかに「長女」と「二女」があり、多様なルビつかいの一部をなす。ルビと本行の組み合わせの一般性を検証するために『日本国語大辞典(第二版)』(以下『日国』)の収録状況を調査し、対応のありようを検討するために対応が単字レベルか熟字レベルかの調査結果も報告する。

 

豊川浩一先生

ロシア帝国に生きたある民族の軌跡

――バシキール人サラヴァト・ユラーエフを記憶する――

 

【報告要約】

ロシア連邦バシコルトスタン共和国の首都ウファーにはロシア人とバシキール人の一見相反するような関係を示す二つのモニュメントがある。一つはバシキーリアがロシア国家に「自発的併合」されて400年を記念して建てられた「民族友好記念碑」(碑には1557~1957年と明記、1965年建立)であり、いま一つは1967年に建てられた民族の英雄サラヴァト・ユラーエフの馬上像である。前者はバシキール人が自らの意思でロシア国家の一員になり、両者の関係が常に「友好的である」ことを示そうとしている。後者はプガチョーフ叛乱(1773~1775年)に積極的に参加し、ロシアが推進した植民政策に反対した人物である。ともに歴史的事実の「一面」を伝えるモニュメントであるが、それぞれが友好とプロテストというロシア国家への相反する対応を示しているのはこの地域、ひいてはロシア国家と諸民族の歴史を考える上で示唆的である。200463日にはウファーでサラヴァト・ユラーエフ生誕250周年を記念して盛大な学術会議が開催された。共和国を挙げての催しで、当時の大統領М.Г.ラヒーモフ(2010年解任)も開会の辞を述べたほどである。これと前後して刊行された多数のサラヴァト・ユラーエフに関する論文や研究書、啓蒙書、観光案内やパンフレットの中で、とりわけ『サラヴァト・ユラーエフ―百科事典』(ウファー、2004年)は質量ともに壮観である。また時を同じくして出版された『サラヴァト・ユラーエフ―250年:アルバムとアンソロジー』(ウファー、2004年)は芸術作品のなかで取り上げられたこのバシキール人英雄に関する書物として注目に値する。サラヴァト自身の創作した詩を集めたものも刊行された。学術論文集『サラヴァト・ユラーエフの生涯と作品における自由の思想』(ウファー、2004年)も重要である。なかでも百科事典『サラヴァト・ユラーエフ』はプガチョーフ叛乱研究の専門家が中心となって編んだもので高度な専門性に富んでいる。500頁近くにもおよぶこの事典の中心は何と言ってもプガチョーフ叛乱におけるサラヴァト・ユラーエフの活動が古文書史料を基に簡潔に述べられている点である。また芸術家たちによる民族の英雄の彫像や絵画も載せられている。そして20146月、ウファーでの国際学術会議「歴史的・文化的広がりにおける個人の役割(バシキール人の民族的英雄にして即興詩人サラヴァト・ユラーエフ〔生誕〕260周年に寄せて)」も大きな盛り上がりを見せた。以上がサラヴァト・ユラーエフに関する最近の動向および関心の学問的高まりを示すものであるが、その背景には自民族の英雄を顕彰することによって民族意識を高揚したいというバシコルトスタン共和国当局の思惑もある。今回の報告はこうした状況について紹介することを目的としている。

 

 

1030

 


山本耕

同化 (assimilation)の一形態としての適応 (adaptation)

1933年から1943年のフランスにおける「難民問題」とユダヤ系フランス人指導者レモン・ラウル・ランベール―

Adaptation as a Form of Assimilation

"Refugee Problem" in France of 1933 to 1943 and a French Jewish Leader, Raymond-Raoul Lambert

 

【報告要約】報告者は、20世紀前半に活動したユダヤ系フランス人指導者レモン・ラウル・ランベール (Raymond-Raoul Lambert, 1894 -1943) についてこれまで研究を行ってきた。本報告では、ランベールに関係する先行研究を整理し、彼に対する新たな評価枠組みについて考察した。彼に対する評価枠組みとして想定されるのは、以下の四つである。第一に、ヴィシー政権期ユダヤ人迫害研究。第二に、1930年代難民問題研究。第三に、近代フランス・ユダヤ人研究。第四に、近現代フランス史研究。今後は、この中でも特に、フランス革命における市民権の獲得から、ヴィシー政権によるその剥奪までを時間的枠組みとした近代フランス・ユダヤ人研究において、ランベールの「同化」そして「適応」に関わる主張がどのように位置づけられるのかを考察したい。

伊與田麻里江

南杣笑楚満人の敵討もの―その多様性と読本への影響―

 

【報告要約】南杣笑楚満人は、敵討もの中興の祖として評価されているものの、その個々の作品については研究が進んでおらず、評価も低い。本発表では、まず、楚満人の黄表紙における挿画と描写に着目し、展開が複雑な敵討ものだけでなく、滑稽を旨とする作品でも、あらすじを説明する文章が多く、細かい描写に気を配っていること、また、敵討ものでは残酷な画を多く取り入れることで、敵討ものの見せ場を従来のものとは変化させていることを示した。また、敵討ものに絞って考えても、悪女伝や、亡霊、島巡りなど、多種多様な趣向を取り入れ、敵討ものに多様性を生んだことを述べ、また、そのうち亡霊譚について、読本への影響があったことを示して、楚満人黄表紙の再評価を試みた。

 

Octavian Saiu先生

パフォーマティブ・モダニズム――20世紀初頭再訪

 

【報告要約】

 

 

1113

 

落合修平

芥川龍之介「三つの窓」について

――初期と晩期を繋ぐための予備的考察――

On Akutagawa Ryuunosuke's "Three Windows"

 

【報告要約】吉本隆明は、「大川の水」をその源流とするような最初期のテキストに「芥川の資質」を読み取り、自裁に至ることとなった晩期において、最初期の作品世界への回帰がその「生きながらえ」る道であり得た可能性を示唆している。ここで吉本が晩期作品の例として挙げるのは、「歯車」であり「或阿呆の一生」であるが、そこで芥川のいわゆる「「話」らしい話のない小説」の系譜にある作品の名はどれも挙げられていない。本発表では、その志賀直哉「城の崎にて」の模倣から、志賀を典例とした「「話」らしい話のない小説」に通じるとも考えられる最晩期の「三つの窓」を取り上げる。当作は同時代評において、初期作品風の印象を与える作とみなされており、これを考察することにより、仮想的に描くのではなく、芥川晩年の《回帰》の問題を残された作品に即して論じることを目指した。発表では初期の代表作である「羅生門」とのテーマなどの類似を指摘するにとどまったが、その類似の持つ意味を今後検討していきたい。

 

翟一溪

志賀直哉の「雪の日」について

――西洋から東洋への回帰――

A study on ShigaNaoya’s Ukinohi

 

【報告要約】「雪の日」は大正九年二月に『読売新聞』に発表された作品であり、「我孫子日誌」という副題が付けられているので、志賀直哉(作中の「自分」)が大正九年「二月八日」に実際に体験したことが描かれたものとしていい。この作品は、我孫子時代の志賀文学を分析する時に、無視できない重要な一作だと考えている。本発表は従来殆ど論じられることのなかった「雪の日」を分析して、我孫子時代における志賀の精神のあり様を中心に考察するものである。昼頃から粉雪の降るなか、「自分」はK君(高橋勝也)と町へ買い物に出る。柳(宗悦)の家に寄り、リーチ(バーナード)や橋本君(橋本基、その父は高名な日本画家の橋本雅邦)たちとのフェノロサをめぐる談笑シーンもある。夜遅く仕事をするが、窓の外を見ると、雪は降り止んで星が出、「前の梅の枝に積つた雪が非常に美しかつた」と結ばれている。「自分」たちはこの一日、「快活な気分」の往来で終始したといえよう。志賀は大正三年頃から東洋古美術、仏像仏画などに心を惹かれるようになっていたのである。本発表は、大正六年に柳宗悦の住む我孫子に移り住むことで、柳宗悦を中心として美術交流及び精神的交流が深められ、志賀の深部に、東洋的世界観、宗教観が根を下ろしていたことを明らかにしたのである。

花岡敬太郎

近現代を描いた時代劇メディアと歴史学

 

【報告要約】本報告では、近現代史を題材とした時代劇や小説に歴史学がどのように関わってきたかについて整理・考察した。近現代史を取り扱った時代劇については、維新期前後やアジア・太平洋戦争関連を取り扱ったものを中心にNHK大河ドラマなどで比較的高頻度で繰り返し制作されてきたが、時代考証などに近現代史研究者が積極的かつ広範に関わるような状況にはなっておらず、むしろ研究者は深く関わることを避け、コミットは限定的で断片的なものになりがちであると言える。報告では、なぜこのような状況になってしまったかを昭和史論争以来の歴史と文学の関係を中心に大岡昇平や色川大吉の取り組みを取り上げることで整理した。加えて、今後、歴史学研究者が近現代史を取り上げた時代劇に関わっていく際に想定される課題や展望について、近年のメディアと歴史学の関係性を踏まえた上で考察した。

 

文化継承学・合同授業

 

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藏田愛子先生

明治期の「画工」と理学

 

【報告要約】明治期の東京大学理学部には「画工」と呼ばれる一種の職業画家が雇われ、彼らは動物や植物、地層、考古遺物、建造物、器械といった様々な学術資料を描写する業務に従事していた。明治10年代には、欧文紀要“Memoirs of the Science Department, University of Tokio, Japan”(1879-1885年、以下『メモワール』と略)やその邦訳版『理科会粋』(1879-1883年)、総合学術雑誌『学芸志林』(1877-1885年)、『小石川植物園草木図説』(1881-1886年)などが東京大学より立て続けに刊行されており、画工はこうした学術書に掲載する図版の原画作成に携わっていたと考えられる。本報告では『メモワール』と『理科会粋』の図版制作工程を追うことで、描写や印刷の技法に通じた画工たちが理学の各分野の成立過程において果たした役割を検討する。

野田学先生

ウィリアム・ハズリットにみる『あだ名』の反演劇的政治学

 

【報告要約】18世紀末から登場した英国のロマン主義は傑作戯曲を生みだしえなかったというのが、英文学史ではほぼ通説となっている。もっと言えば、英文学史において、18世紀と19世紀はそもそも戯曲という点でほぼ等閑視されている観さえある。これは「文学史」であって「演劇史」ではないからだというのがおそらく最大の理由なのだが、ことロマン派演劇に関する限り、そこにドラマのもつ開かれた対話性とそれがもたらす軋轢というものがどこか欠けているというのも事実である。そして通常この問題は、ロマン派詩人達の過度の主観性、つまり自分の主観の中だけであらゆる対話性を一種のモノローグとして回収してしまおうという傾向のせいであると説明されてきた。本発表では、この点を19世紀初頭に活躍した英国の著作家・劇評家・エッセイストであるウィリアム・ハズリット (William Hazlitt, 1778-1830) が、同時代の政治的風潮において見出した反演劇性を通して検討してみたい。というのも、ハズリットは「あだ名 (nicknames)」という言葉を軸に、彼の時代の政治性・党派主義がそもそも反演劇的なのであると論じているからだ。ロマン派詩人が書いた演劇の不調を、彼らの「自分語り的主観化」以外の理由に求めたという点で、ハズリットはあらたな考察の方向を提供しているのである。

 

 

1211

熊谷知子

プラトン社と小山内薫―雑誌『女性』を中心として―

Platon-sya and Osanai Kaoru: Focus on the magazine “Josei”

 

【報告要約】大阪の出版社「プラトン社」は化粧品会社「中山太陽堂(現、クラブコスメチックス)」を母体とし、大正末期から昭和初期にかけて雑誌3冊(『女性』『苦楽』『演劇・映画』)と文芸書20冊を発行した。奇しくもプラトン社創設の翌年に生じた関東大震災の影響により、東京の作家たちが大阪に身を寄せたことで誌面はいっそう充実した。小山内薫(1881-1928)は明治後期より中山太陽堂に関係しており、明治45年(1912)から翌年にかけてヨーロッパに洋行した際には中山太陽堂が援助をしたとも言われている。小山内は松竹を離れた大正11年(1922)にプラトン社の顧問となり、編集や執筆に携わった。しかし、大正13年(19246月の築地小劇場設立の直前の時期ということから、「絶望」の日々であったと考えられがちで、これまで十分に顧みられてこなかった。今回は、化粧品会社と演劇の関係が深かったことに着目しながら中山太陽堂およびプラトン社について確認した後で、雑誌『女性』を中心に小山内とプラトン社の関係について整理した。

 

酒井晃

日本共産党と同性愛―1970年代を中心に―

 

【報告要約】本報告では、1970年代における同性愛嫌悪の一端を明らかにするため、日本共産党の同性愛へのスタンスと76年の共産党市議の窃盗事件を引き金としたメディアにおける同性愛嫌悪の問題を検討した。共産党は70年代に「市民」のための政党としてクリーンなイメージを出すため、性表現の問題に踏み込んだ発言を相次いでおこなった。「ポルノ」は「退廃」をもたらす「文化」であるとし、資本主義や国家権力が「腐敗」しているがゆえに、それらが蔓延していると強く主張した。名指しされた週刊誌は反共主義を利用しつつ反論を載せ、それに共産党が反批判した。76年に共産党市議が窃盗で逮捕された際、彼が同性愛者であったことが暴露される。メディアは好機の目で事件を報道し、市議が「男らしくない男性」として描かれ、「女性化」された振る舞いをする人物として表象された。共産党は事件を党とは無関係であるとする反論を試みるが、市議は共産党のスタンスとは相容れず、「例外」であったと処理する。共産党・メディアはイデオロギー的には対立していたものの、同性愛嫌悪は共有していた。ただし少数ながら、同性愛嫌悪への批判や事件後においても市議への信頼を寄せる「声」はあったものの、黙殺されてしまった。

井戸田先生

「ニーチェと詩」を総合テーマにする国際会議の報告―ナウムブルク・ニーチェ文献研究センターにおいて2015年10月15日~18日の期間開催

 

【報告要約】

 

 

2016

18

雨宮史樹

1920年代初頭の社会構造の一考察

 

【報告要約】

 

鈴木杏花

太宰治「日の出前」考

 

【報告要約】

 

宮越勉先生 敗戦後の志賀直哉――「銅像」「天皇制」「国語問題」などの提言をめぐる考察――

 

【報告要約】

 

 

 

 

 

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2010
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2009年度はこちらよりご参照ください。

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