【解 説】 南北離散家族再会とは何だったのか


 南北離散家族対面は、太陽政策の一つの目玉として、南北韓国・朝鮮両指導者の合意の下、行われた政治的デモンストレーションであった。日本では、南北の和解ムードばかりが伝えられ、「感動」が強調される報道展開となったが、余りといえば現場を仔細にみない話題性だけに飛びついた報道だ。
 ここでは、韓国の 『中央日報』『朝鮮日報』『東亜日報』 の三紙の記事を集成して、そこから離散家族問題をめぐる諸相を整理したいと思う。

参 考 資 料
 南北両訪問団による相互訪問時の声明 
 慟哭の記録 −離散家族の発言から− 

 も  く  じ 

  
 ■ 個々の離散家族にとって再会とは何だったのか? 
 ■ 再会と葛藤 
 ■ 民間対面斡旋団体による再会 
 ■ 平壤にとっての離散家族再会 
 ■ 大韓赤十字総裁更迭問題 
 ■ 第2回離散家族再会 第1回との比較 
 
 

 ■ 特殊離散家族問題 
 ● 非転向長期囚  
 【定義】、 【非転向長期囚の離散家族化】
 【辛光洙(シン・グァンス、71)送還問題】
  ● 国軍捕虜・拉北者 
  ● 北派工作員 
  ● 脱北者 
 ■ 小括 
 



 

 それは「50年ぶりの3泊4日」であった。再会した家族は誰もがすぐに50年前に戻っていた。しかし、再会の喜びが大きければ大きいほど、その別れはつらいものとなった。実際、再会以降、離散家族の多くが不眠症、精神的喪失感といった「再会症候群」に陥っている。平壌訪問団の診療を担当した李洙真(イ・スジン、38)医師は「再会を終えた高齢者の離散家族の場合、家族と共にいられない自身の人生を、どう補償してもらえるかという 虚脱感、喪失感に苦しめられる」と指摘した。高齢者の場合、それは痴呆へと発展する確率が高い。「家族に会えないまま死ぬかもしれなかったのに、顔を見ることができたのはうれしいことだという点を、周りの人々が強調、指摘してあげるべきだ」という助言は、「再会問題」が、正に「再会後問題」であることを示している。

 理想は自由意思による再結合と定着だが、段階的な処置として名簿交換→生死確認→私信交換→対面→対面所設置→対面定期化といった過程が模索されている。毎日100人ずつ会ったとしても、韓国の離散家族全員が取りあえず一回は肉親と再会できるには二ヵ年を要する。離散家族の多くが高齢者に属すため、要するに今回のような方法だけでは問題解決に限界がある。多様な方法による解決が急がれるのである。

■ 個々の離散家族にとって再会とは何だったのか?

 再会申請に漏れた離散家族が大韓赤十字社に抗議に訪れたというのも、彼らは絶望と希望の境界線に置かれているためだ。離散家族再会推進会の李敬南(イ・キョンナム)会長は「760分の1の確率で再会が行われるが、一人の喜びの後には759人の痛みが続く」と述べた。今回の離散家族再会を「韓半島の苦しみを癒した」と評したマスメディアもあるが、それは余りといえば民衆の心を見据えない評価だ。

 肉親と再会した離散家族の思いに南北の差はないだろう。しかし、今回、再会した北の人々は「民衆」と呼ぶには程遠いエリート階層であった。北朝鮮では98年3月、離散家族住所案内所を設置したが、「勇気ある」申告は460件だけに止まり、南の7万6千人とは大きな差がある。この南北格差は、双方の入国者数にも見られる。1990年以後、合法的に訪韓した北朝鮮人は992人。94?98年は1人も来なかった。これに対し99年までに北朝鮮を訪問した韓国人は1万1、321人。この数字には98年11月以降の金剛山観光客の20万人は含まれていない。

 韓国の統一部当局には金正日(キム・ジョンイル)国防委員長の「拡幅政治」により、越南者に対する差別が緩和されてきたと分析するむきがある。しかし、ソウルを訪れた訪問団に越南者は含まれておらず、朝鮮戦争前後に越北し、北朝鮮の社会で成功した人々ばかりであった。

■ 再会と葛藤
 

 後に触れる民間対面業者による斡旋の場合、北の離散家族が南から来た親族との対面を拒絶することがある。それどころか折角、対面業者を通じ所在が確認できても、「戦死した人が生きているはずがない」と、その存在すらを頑なに否定されることもある。こうした場合、離散家族は「爆撃で死亡」、「戦争の時、失踪」ということにして「愛国烈士遺族」という出身成分(51階層中、上から7番目)にありよい待遇を受けている場合があるからである。北朝鮮では1960?70年代、越南者の家族を「敵対階層」に分類、抑圧してきた。これまでにも小説家李文烈(イ・ムンヨル)氏のように北の弟との再会(民間ルート)がマスコミに取り上げられたため、北朝鮮にいる弟が教化所に入れられてしまうというケースがあった。

 同様の問題は韓国にもある。北で越南者が差別されるように、南では越北者を出した家族には「連坐制」が猛威を振るうのである。越北者は、まず公職にはつけない。捜査機関により定期的に調査を受ける。当然のことながら、民間への就職に際しても家族の前歴をひた隠しにしなければならない。今日、連座制はその法的根拠が廃止されたとはいえ、反共・反北朝鮮に基づく差別は韓国社会に定着しているため、その苦痛から海外へ移住するものさえいる。

 このため越北家族の間では強制連行・拉致といった本人にとって不本意な越北であったということになっている場合が多い。従って、当人の越北が自主なのか、連行なのかは、残された家族・親族にとって大きな問題であり、真相を知ることをおそれ再会を敬遠することもある。「今は和解局面だが、今後南北関係がどのように変わるのかは誰も知らないでしょう」と慎重に考えるものが多い。韓国赤十字はこうした問題を考慮し、再会を望まなければ北朝鮮に「所在確認不可」「再会不願」などで通報することとしている。

 再会を避ける理由は他にもある。深刻なのが重婚と財産権に関する問題だ。離散家族の資産家などが多額な財産を遺した場合には、その相続をめぐり訴訟がおきるケースが出てきている。戦争中に家族を残して北から越南をしたある男性が韓国で財をなし新しい家庭を築いていたが、そこに今度は北に残してきた家族が脱北して韓国にきたという事例がある。このケースでは遺産の相続をめぐり北から越南して来あた元の家族と、南の新しい家族との間で訴訟が起きている。韓国では重婚は過去にさかのぼり基本的に無効とされ、民法は北朝鮮の住民にも適応されるので、この裁判では南の新しい家族が負ける可能性が高い。平安南道が故郷の退職企業家金某(70)さんには、北に残してきた本妻と息子がおり、98年には中国を通じその生存を確認した。しかし、韓国で再婚し子供のいる金さんは「財産分配などの問題で子供たちの反対が激しいだろうと思い、家族に話しさえ持ち出せないでいる」状態だ。

■ 民間対面斡旋団体による再会

 韓国には政府から承認された民間対面斡旋団体が全部で38ある。そのうち、実際に活動しているのは10団体前後。離散家族から調査依頼を受けると、まず生死確認をし、それから手紙や写真を北側の家族に送り、さらに状況が許せば対面へと持ち込む。この場合、対面は中国領内で行われる。従って、連絡者として活躍する在中国コリアンの役割が大きい。彼らはビジネスマンに扮して北朝鮮内に合法入国したり、あるいは北朝鮮内に独自の協力者を雇ったりして活動を行う。

 必要な経費は、生死確認に500?1,000ドル、手紙交換に約1,000ドル、対面に8,000?1万5,000ドルが必要となる。つまり、再会に至るまで約1万ドルから2万ドルかかるということだ。経費は斡旋団体関係者に対する謝礼と北側関係者に対する賄賂である。経費にひらきがあるのは連絡者や協力者の能力、北側家族の所在地により大幅にコストが変わってくるからである。韓国政府は60才以上の高齢離散家族に申告だけで北朝鮮訪問を許可し(北朝鮮が入国を承認すればの話だが.....)、交流補助金(生死確認80万ウォン、対面180万ウォン)を支援している。また、「離散家族総合情報センター」のホームページを開設、オンラインでの申請も受けられるようにしている。

 しかし、この民間対面は所詮、庶民には遠い高額な世界である。黄海道出身で大田に住むH氏(81)は97年、民間対面斡旋団体に北に残してきた娘の調査依頼をしたところ、所在の確認ができた。手紙と写真の交換を3回繰り返し、再会を決心した。しかし、再会の試みは4回とも失敗に終わった。5回目にようやく娘を中国領内に呼び出す事ができた。その間、北の監視員・通行書発行機関に2万3,000ドル、中国公安当局等に高額な賄賂を支払った。5泊6日の親子再会となったが越南者家族として抑圧を受けてきた娘の苦痛に、父は涙ぐみながら謝ったという。このケースでの費用は、推計となるが総額10万ドルに及ぶのではないかと思われる。

 また失敗に終る事もある。在中国コリアンの連絡者が中国公安当局や、北朝鮮内で保衛部に捕まってしまうことがある。彼らも命がけなのである。こうなると連絡者の救出のためにさらに賄賂が必要となるし、最悪、連絡途絶ということにもなりかねない。さらに北朝鮮側の家族に韓国からの接触の試みがあったことが治安機構に露見すれば、北の家族は精密監視対象にされたり、教化所送りとなったりするのである。従って、北側の家族が連絡を受けても再会を拒否する事もある。

 さらに酷いことに離散家族を食い物にする詐欺も起きる。大田の経営者金某(72)氏は、98年2万ドルを費やし丹東で夢にまで見た甥と二日間を過ごした。ところが、対面の喜びも束の間、在中国の仲介者が「私にも金をよこさなければ、北朝鮮当局に知らせて甥の家族を皆殺しにする」などと言ってくるのである。この場合、政府が承認した団体とはいえ、中国領内での活動は主権の及ばない地域での非合法活動なので依頼者は泣き寝入りである。

 それでも、90年以降、韓中関係が好転することで中国ルートの交流件数は大幅に増えた。90年には95件だったが、99年には1、318件、2000年には4月末現在で605件となった。90年以後の総交流は8、094件で、このうち再会に至った家族は6.4%の518人となる。残りは生死確認、書信交換に止まる。

■ 平壤にとっての離散家族再会

 「南北離散家族再会」は、北にとって政治利用の具でしかなかった。本誌34号における萩原遼氏の指摘「南北会談 100人の離散家族再会では、何も変わらない」の正しさを改めて実感する。実際、金正日は、昨夏のオリンピックにつき「シドニーより先にソウルに行かなければならない」と述べていたが、年始早々の北京・上海行でこれが単なるリップサービスに過ぎなかった事を示した。

 しかし、離散家族再会を前後して体制と理念を越えた血縁の絆は、北朝鮮の変化に大きな期待を膨らました。例えば、それは85年の故郷訪問団との比較から論じられたりした。85年の再会が約2時間の再会だったが、第一回離散家族対面は6回で11時間の再会であった、南北代表団が同じ金剛山ホテルに同宿したことはかつて前例がない(他に宿泊施設があるのか?)等々......。

 南の期待を弾ませるような北朝鮮側の発言もあった。南北両赤十字の団員の世代交代を北朝鮮側関係者は「南の方でも386(30歳代、80年代大学入学、60年代生まれ)世代に変わっているから、北でも世代交代するべきですよ」などと述べたし、ソウル・平壤相互交換訪問の折衝で北の連絡官は「双方がそれぞれ航空機を運航する必要があるのか。北朝鮮側の航空機が北朝鮮代表団を載せてソウルに飛び、その後韓国側の代表団を平壌まで運ぶことにしよう」と提案し驚かせもした(実際、その通りの相互乗入れとなった)。極めつけは韓国マスコミ関係者訪朝の折の金正日の発言である。彼はそこで「今年は9月、10月に毎月一度ずつ」離散家族に再会の機会を与え、来年は「離散家族らが家まで訪問することができるようにしてみる」と発言したのである。このため、8.15再会後に予定されていた一連の展開(非転向長期囚の送還(9月2日)、離散家族面会所設置のための赤十字会談(9月初め)、盆の離散家族再会(盆の前後))から、「9月の急流」という表現も登場し期待は大いに膨らんだのである。

 李柄雄(イ・ビョンウン)前大韓赤十字社総長は「非転向長期囚の送還が終われば離散家族問題が失踪する可能性もある」と述べたが、この急流はその懸念通り9月で止まったのである。ところが、政府当局は「北朝鮮側が労働党創立55周年の記念行事などで韓国と関連した事業の日程を守ることができなかった」、「行事も終わり、これから本格的な正常業務に入るだけに離散家族訪問団の相互訪問などもスピーディーに進められれば日程に合わせることができるのでは」と期待をつなぎ続けた。そのかすかな期待を引き伸ばしたのは、アメリカ大統領選挙の集計が予想以上に長引いたからに過ぎない。

■ 大韓赤十字総裁更迭問題

 この問題は南北間の交渉遅延策を企図し北朝鮮側の一方的な論難として全く降ってわいたようにおきた。11月3日、平壌放送は「当面の離散家族訪問団の相互訪問と今後の北南赤十字会談を見直さざるを得ない」と一方的に強調した。その理由は、大韓赤十字張総裁が「我々の高貴な政治体制に真っ向から対抗する妄言」を行い、「張総裁が赤十字社の総裁でありながら、離散家族訪問団の相互訪問事業を我々に対する誹謗中傷に利用しているのは、人道主義の理念や同胞愛の視点から到底許すことのできない挑戦であり、我々に対する耐えられない冒涜である」というのである。そして、「挑発者への我々の裁きは冷酷である」、「張総裁が赤十字会への誹謗中傷だけでなく、我々の政治体制にまで挑み、反北朝鮮対決に目くじらを立てている右翼勢力を代弁している」と、これまた誹謗中傷と挑発を繰り返した。

 北が問題とした張総裁の妄言とは、9月20日に発売された『月刊朝鮮』のインタビューでの発言であった。そこで総裁は「平壌は過去10年間、発展せず停滞していた。韓国からきた人は毎日服を着替えたが北朝鮮の人々は同じ洋服だけ着ていた。離散家族の再会は南北双方の異質性と体制の優劣を比較できる鏡だ。北朝鮮には自由がなく、統制社会のなかで息苦しく生きている」と述べた。

 発売から44日後、遅まきながらの反論となったことはこれが単なる言いがかりであることを示している。当初、張総裁は「辻褄だけ合わせたかのように『北は自由がないなどとは…』と引用するなど意識的に問題化しようとしている印象が強い」、「謝罪すべきことではなく、時間がたてば北朝鮮側が理解するだろう」と答えていた。しかし、その後の展開は余りにもお粗末であった。

 まず北朝鮮赤十字が8日、「張忠植(チャン・チュンシク)大韓赤十字社総裁が、月間朝鮮のインタビュー内容に関して送った『遺憾書簡』を受け取ることはできない」と平壌放送で表明したことで、総裁の謝罪が露見してしまったのである。しかも、同書簡は直筆ではなく代筆によるものであった。また第2次離散家族の再会前日、再会行事に総裁主催の晩餐会があるにもかかわらず、張総裁は突然、日本に出国した。その理由を、再会行事に支障を来す恐れがあり、日本赤十字とサハリン同胞の永住帰国問題を話し合うためとしていたが、日本赤十字総裁は出張中にあり、韓国駐日大使館でも総裁の日本国内での居場所を把握できず、事実上の「雲隠れ」となった。

 12月9日、第3回赤十字会談開催是非を問う電話通知文は、朴基崙(パク・ギリュン)大韓赤十字社事務総長名で送られ、北側は「来年に延期した方が良さそうだ」と回答してきた。この「事務総長名」による通知文送致をめぐってか、21日、張総裁は朴事務総長を解任するに至った。辞任要求の理由を朴事務総長は「張総裁の日本行きを私が勧め、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への電通文も私の名義で送ったことに対する不満のようだ」と語った。その二日後、張総裁は自ら辞任した。

 張総裁は「朴事務総長に辞任するように言った時、私自身も退くことを考えた。北側が第3次交換訪問の時も問題視したらどうすればよいのか。再び(外国に)行けば済むことでもないし…」、「朴事務総長がマスコミのインタビューで個人的な感情で(私を)非難する下剋上まで繰り広げられるとは…。これは果して本人の意志なのだろうかと思った」と語った。その後、28日、かねてから言われていた新千年民主党の徐英勳(ソ・ヨンフン)前代表最高委員が大韓赤十字社の22代総裁になった。

 張氏辞任劇は南北双方に原因がある。北朝鮮側に端を発した問題とはいえ、その後の韓国側の対応は余りにも卑屈な迎合であり、総裁の突然の訪日については政治的圧力の影も言われている。人道主義の「民間」団体においてその内紛がこのような形で表面化し、張氏自らが未だ言えない事もあると発言しているように、韓国側の真相追求が行われるべきである。

 他方、北朝鮮側の真相は二つだろう。ひとつは、10月19日、張総裁が北朝鮮赤十字会に合意事項不履行について北を批判したことに対する報復であり、今一つは北朝鮮が朝米関係に関わるコスト(時間・経費・労力)の支出を最優先したいための時間稼ぎである。特に、10月下旬のオルブライト国務長官訪朝に続き、クリントン大統領訪朝の可能性がとり沙汰されていた時期、平壤としては何時、アメリカ大統領が来てもいいように平壤を「空けておきたかった」のではないか。11月初頭、ホワイトハウスはクリントン訪朝が数週間以内にあり得るとしていた。クリントンの任期内訪朝の可能性が対外政策専門家等の勧告により取り消されるのが11月13日頃であり、これが報道で明らかにされたのが11月14日である。クリントン訪朝の可能性があれば、大韓赤十字総裁への論難を口実として第二回離散家族再会もどうなっていたかわからないだろう。

■ 第2回離散家族再会 第1回との比較

 北朝鮮側は72人にのぼる第1回の脱落者を第2回の再会訪問団に含めたのに対し、韓国側は毎回新しい訪問団を選定することにしている。日程は1日少ない2泊3日であったが、観光を減らすなどで、実際の対面時間は1次とほぼ同じの9時間となった。また、北側のメンバーは第1回と比較して「普通」の人々が増えたと分析する向きも一部にあったが、基本的に北朝鮮で成功した人々であり、話題となった拉北者1名を除くと全てが「越北者」で占められた。

 第1回と比べると、北による再会事業の政治化の度合いが一層強いものとなり、金正日総書記の称讃、体制宣伝が増えた。ソウル・平壤双方の北側の代表はいずれも再会初日、大韓赤十字総裁に対する非難を述べた。「張総裁は一度罪に死に、正しく生まれ変わらなければならない」とは、これが再会事業の発言かと驚かされる。また、ソウル訪問の離散家族は、金正日の著作や宣伝用の冊子を持参して来た。高麗ホテルで北のある家族が「偉大なる将軍様のために万歳しましょう」と提案し、南の家族が当惑するという場面もあった。これを「南側の家族がどう対処していいかわからなくて困っていた」と報じた『朝鮮日報』に北側は謝罪を要求し、この記事とは直接関係ない同新聞社の写真記者を軟禁することまでしたのである。

 また、第二回の訪問では、北朝鮮は北の家族に対する南側のお土産を制限(父母に洋服一着分の布地、兄弟に簡単な記念品、現金500ドル以下、中古品不可)した。一部報道はこれをあたかも北の要求かのように伝えたが、それは間違いである。前回、韓国の家族の中には着ていた服をその場で脱いであげたり、1万ドル以上を渡したりした。北はしばしば、「韓国の毒虫や害虫が北朝鮮社会に侵入しないよう、高く高く防虫網を張らなければならない」と宣伝してきたが、お土産の制限は言わばその防虫網なのである。第1回再会が、北朝鮮の体制の正当性にとって好ましからざる要因を多くもたらしたに違いない。

 第1回再会のソウルと平壤の様子を、朝鮮中央テレビは異例な事であるが、会場の再会家族の会話をそのままに放送した。従来のアナウンサーの解説だけで現場音のない画像と比べると大きな変化である。高麗ホテルの売店にあるテレビでソウルでの再会場面が映し出されるとすぐに女子職員10人余りが集まり、韓国側の記者に「自分のことのように胸が痛む」と再会場面を涙ぐんで見守ったという。しかし、第2回ではソウルの再会場面はほとんど放映されなかった。

 第二回離散家族再会では、拉北された東進(ドンジン)27号の甲板長のカン・ヒグンさん(49)が平壌を訪問した母親の金三礼(キム・サンレ73)さんと「劇的な再会」をした。しかし、姜氏が「拉致はでっち上げで、我々は38度線を越え、(北朝鮮の)警備艦に捕らえられた」、「共和国(北朝鮮)滞在中の数日間に無償で勉強できて無償で治療してくれると聞いたため、ここで暮すことにした」と発言したり、それに合わせて平壌放送が「姜氏が東進号の拉致や北へ拉致されたということは、ねつ造であり、偽りであるということを全世界に宣言する」と報道したり、この再会は文字通りの「劇」に過ぎない。姜氏は2カ月前に労働党に入党したということだが、この「辻褄合わせ」から、どうやら遅くとも9月前後から周到に準備された再会劇なのであろう。

 *東進27号拉北事件

 ドンジン号は1987年1月25日、ペクリョン島北西側28マイルの公海上で乗組員12人を乗せて操業中、北朝鮮警備艇により拉致された。当時、北朝鮮は「ドンジン号が北方限界線を越えて偵察行為をした」と主張し、その後、国際世論の批判を受け送還を約束したにもかかわらず、北は船員の抑留を続けた。

 ドンジン号乗組員の家族、錫奉(ソクボン、30)さんは「拉致による離散と故郷を失った人達の離散は厳然たる違いがある。強制的に拉致された漁民を離散家族の問題として扱ってはならない」と訴えている。

■ 特殊離散家族問題

 日本では「感激の再会」の報道が先行し、特殊離散家族の問題が見失われがちである。特殊離散家族とは非転向長期囚、国軍捕虜、拉北者、北派工作員、脱北者等のことを意味し、本来、離散家族とは別個の問題として取り扱われるべき問題である。

 ● 非転向長期囚

 【定義】

 そもそも韓国で「非転向長期囚」は北朝鮮式用語という理由から禁止されてきた。実際には全員出所した状態であり「非転向長期囚」は存在しない。以前は転向する可能性があるという含みから「未転向長期囚」とした。これも釈放した人を「長期囚」とするのは矛盾があるということから、「出所共産主義者」に変わった。しかし、共産主義者の釈放を容認した表現になるとの批判から、99年2月、「出所南派(北朝鮮から韓国に派遣された)スパイ及び公安関連事犯」となった。

 金正日国防委員長は「彼らを連れてくるための闘争を繰り広げなければならない」としてきたが、6.15共同宣言に際し南は北に譲歩し、ついにこの表現を宣言文に取り入れたのである。結局、北送対象者は63人となったが、これを受け「転向長期囚まで平壌行きを希望」するようになり、「北朝鮮も彼らを受け入れるという立場だとすれば「非転向」の範囲をめぐる論議は避けられない」との政府当局の見解は、この問題の根底にある矛盾を示している。

 【非転向長期囚の離散家族化】

 非転向長期囚の中には送還することで南の親族や、出所後に構えた家族と会うことが出来なくなるものがいる。31年間刑務所の面倒を見てくれた母親(93)との別離となる申(シン)・インヨン(71)氏は、「北に置いてきた妻と息子には会えるが、母親を残して行くのはあまりにもつらい」と話した。また、93年釈放後、結婚したキム・ミョンス(79)氏。94年から女性と同居している金永泰(キム・ヨンテ、69)氏など、この新たな離散問題に該当するものは約10人。

 【辛光洙(シン・グァンス、71)送還問題】

  日本で問題とされたのが、80年6月宮崎県青島海岸で日本人コック原敕晁(ただあき、44)を拉致した辛光洙の送還である。80年2月、「合法的な身分を勝ち取るため」という金正日からの直接の指示(?40?50歳の男性?身寄りがない独身?パスポートの発給経験がない?前科がない?借金がなく銀行口座を開いたことがない人を探し出し拉致せよ)で、80年4月、日本に潜入。原敕晁さんを宮崎に誘い、酒を飲ませ海岸に連れ出し北朝鮮工作員に引き渡したものである。以後、辛光洙は原敕晁になりすましスパイ活動を行った。これら一連の拉致活動は85年安全企画部に捕まった時、辛光洙が原敕晁の身元事項が詳細に書かれたメモを持っていたことから、露見した。日本人拉致問題で数少ない捜査実例であり、日本政府は「調査を進めている日本を難しくするもので、非常に残念」と韓国を批判し、毎日新聞は9月4日付けの社説で異例の韓国政府の直接批判を行った。

 ● 国軍捕虜・拉北者

 北朝鮮人権白書(統一研究院)によると、拉北・抑留者は4,210人。99年3月、国家情報院は87年1月に拉致されたドンジン号漁労長チェ・ジョンソック氏をはじめとする454人の名簿を公開した。さらに朴在圭(パク・ジェギュ)統一部長官は6月29日、元国軍捕虜問題は約4万人としこのうち「300人の名簿が確認された」と発表した。従来、政府は未帰還国軍捕虜を約1万9,000人と推定してきたので、二倍以上に増えたわけだ。この発表で暗に赤十字交渉などでもこの問題を議題にのせていることを含んだが、北朝鮮当局は終始「一人の捕虜も拉致された民間人もいない」としている。

 それどころか、8月23日、北朝鮮は韓国内に存在しているかのような偽装放送「韓国民族民主戦線」を通じ、「拉致者たちは韓国社会に幻滅し、北朝鮮に憧れ、自ら進んで北朝鮮国民になった人たちで、元国軍捕虜は捕虜交換当時、米国植民地の韓国に帰ることを拒否し、自ら進んで残った国民だ。彼らは皆、家庭があり幸福な生活をしていて、韓国に帰ることを望んでいない。彼らの送還は自由意思に従うべきだ。こうした問題が本人の意思とは関係なく、強圧的に処理されれば反人権的な犯罪行為になる」と声明した。

 従来、「存在していない」としてきた拉致者・捕虜について、この「半公式」声明は、その存在を前提とした反論をしてきたわけである。北が非転向長期囚の送還を要求するならば、当然のこととして、これを交渉カードとして国軍捕虜、拉北者の生死・所在確認やその送還を公に強く要求すべきであった。ところが、韓国政府は国軍捕虜、拉北者を「不本意ながら北朝鮮に残ることになった人々」という表現にまで後退し、専ら北を刺激しないようにという姿勢で一貫した。

 ● 北派工作員

 戦時は軍人身分で、休戦以後は軍籍のない民間人の資格で北に派遣された工作員のことである。休戦後の53年から59年の間だけで5,576人の工作員が派遣され、72年までに失踪・死亡したスパイは7,726人にもなる。その中には14才以上の10代の少年が27%も含まれていた。戦時・平時を問わずその訓練は軍により行われたが、派遣は民間人の資格で行われたためその国家補償の対象としての法的根拠がないのが実情である。政府は98年密かに家族にその死亡または失踪事実を通報したが、民主党の金成鎬(キム・ソンホ、統一外交通商委)議員が昨年10月2日、北派スパイ366人の名簿を入手・公開するなど、情報が公となることで注目され始めた。

 しかし、この問題がさらに議論を呼ぶようになったのは非転向長期囚の北送実施である。南派工作員が英雄として帰還するのと比べ、余りと言えば、格差がある。

 ● 脱北者

 北朝鮮に両親兄弟を残し脱出してきた脱北者は、残してきた家族に危害が及ぶことを恐れ、韓国社会の中で公に名乗ったり、家族の身元を公開したりすることができずにいる。対面への申請など思いもよらないのである。脱北者は「私たちも南北の分断によって生じた犠牲者ではないか」とし、離散家族再会の報道に涙を流すばかりである。脱北者は韓国に約1000人、海外に30万人いると推定されている。

■ 小括

 離散家族再会問題の流れを追う中で、ここ半年の推移が逆にはっきりしてきた。全体として3つの流れがある。第一は、6.15南北共同宣言に向けた対韓関係を中心とした流れ、第二はオルブライト訪朝・クリントン訪朝問題・アメリカ大統領選挙といった対米関係を基調とした時間稼ぎの流れ、そして第三がアメリカ共和党政権確定に伴う対中関係を基調とした路線への乗り換えである。つまり、北朝鮮にとって離散家族問題の比重とはこのような流れの中での位置付け過ぎず、韓国をつなぎとめておく外交カードである。合意事項の履行は、北にとって都合の良い太陽政策政権を維持するための支援策に過ぎず、金大中が欲しがる世論の支持を平壌が与えるという構図なのである。離散家族再会事業と人道援助事業とは構図が実に良く似ている。平壌にとって同胞意識そのものが人質なのである。しかし、中朝間にもまた同様な離散家族問題があることを考えると、周辺国との対外関係において北朝鮮はこの問題を避けては通れないはずである。