『都政研究(1999年11月)』より抜粋

超党派の国会議員によって、1990年11月に、衆参両院で「国会等移転の決議」がなされた。後に、バブル経済と呼ばれることになる経済の活況の下での、すさまじいばかりの物理的集中に歯止めをかけてくれる手だてが果たしてあるのか、おそらく、一極集中に対する警鐘としての自戒の念を込めた確認のための宣言なのではないかと、当時は狐につままれながらも思ったものであった。

 ところが爾来9年あまり、驚くことなかれ、国会決議の後に設置された移転調査会、そしてそれを受け継いだ移転審議会によって、移転の準備は着々と進められ、99年の秋も深まる頃には、なんと、最終的な移転先候補地が発表されるところまできているのである。

 そもそも首都を新たに造るという所作は、大和時代のように天皇が変わるたびに建立した時代と違って、世界全体で見た時の国際社会への影響という点で、国家にとっての一大事であり、しかも相当なスケールの一大事業である。90年の国会決議以来、現在までに行われてきた首都機能移転の8年以上にもわたる手続きは、それがそのまま、新しい首都を建造する事を意味はしないにもかかわらず、しかし、それがいつでも、首都と読み変えられる可能性と、その仕掛けが組み込まれているという移転を推し進めるには、けだし巧妙なものであるだけに事態は深刻である。とすると、これほどの国家の一大事を成そうとする原動力は一体何なのか、あるいは誰なのか。

 

● 国会決議とその後の政府の対応


 超党派の国会議員245名によって行われた国会決議の一年後の92年12月には、「国会等の移転に関する法律」が成立した。そして、移転のための論拠、諸手続等、一連の具体的な内容を候補地選定基準という形で検討するために、国会等移転調査会が設置された。その後、この移転調査会は第一次中間報告「明日の日本と新しい首都」(94年6月)で移転の意義と効果、第二次中間報告(95年6月)で移転の範囲と手順、新首都の都市造りを提示してきた。そして、95年末の12月13日の最終報告で移転候補地の選定基準がだされ、調査会はその役割を終えた。

 その半年後、首都機能移転は候補地の選定という具体的なフェーズへと移行するために、1996年6月19日に、その3年半前の92年12月に発布された「国会等の移転に関する法律」が修正され、与党3党と新進党の議員立法による「国会等の移転に関する法律の一部を改正する法律」が発布・施行された。そして、具体的な調査審議を行うために、国会等移転審議会が1996年12月16日に設置され、それ以来、原則として月に一度のペースで審議が行われてきたのであった。1999年10月までに20回以上の審議会、更に、その下部組織である6調査部会の検討を終えて、最終的に候補地の発表に至ることになっている。その間、阪神・淡路大震災の日から丁度3年を経た1998年1月16日の第9回審議会で、国会など首都機能の移転先の第1次候補地(北東、東海、三重・畿央の三調査対象地域)が発表された。そして、99年9月8日の第24回審議会では、若干の絞り込みを行った第2次候補地が発表された。

 国会主導で行われた遷都論議の出発点は、その15年前にさかのぼること、75年2月に発足した「新首都問題懇談会」という超党派の国会議員を中心にした一部学識経験者も含めた懇談会にあった。90年の国会決議がなされる寸前には230人もの与野党議員がこの懇談会のメンバーになっていた。75年の会の発足当時、会長である金丸国土庁長官は、「人口規模55万人、面積8100ヘクタール、移転費用8兆8千億円」という金丸構想を打ち出し、以来、村田敬次郎を会長代理として懇談会の会合を続けてきた。その間、あまり目に見える進展があったとは言い難いが、80年代末から90年代に入るあたりで、急に動きが見え始める。

 その急転回の背景には急速に進行する東京一極集中への危惧という社会経済環境における客観情勢に加えて、リニア・モーターカーによる第二東海道新幹線の建設による新首都へのアクセス確保の可能性が高まったという個別案件的条件の成立という状況があった。

 決議については、社公民の野党三党がおおむね賛成し、とくに野党第一党の社会党は、土地問題を解決するには、首都移転は欠かせないという主張であった。首都移転問題は、自民党より野党のほうが、より熱心な側面があった。

 これに対して、首都の座を失う恐れのある東京では、鈴木都知事と自民党都連の反対があったが、首都移転ではなく、首都機能の一部移転ということで最終的に了解点がえられた。こうして、首都機能の移転を国会移転から始めるというシナリオで、決議がなされることになったのである。しかし、ここにその後、この移転問題が、単なる首都機能の移転なのか、首都移転、すなわち遷都なのかの大きな火種を残すことになるのである。

1977年に閣議決定された「第三次全国総合開発計画」(三全総)では、首都機能の存在が東京における中枢管理機能の集積を生み、東京一極集中の要因となったという判断から、その首都機能の移転再配置が、国土総合開発政策上の重要な課題として位置づけられた。その後、85年5月の「首都改造計画」、86年6月の「第四次首都圏基本計画」におて、東京区部内に立地している政府機関の一部を首都圏内の業務核都市等へ移転する展都・分都についての推進という形で具体策が示された。さらに88年6月に「多極分散型国土形成促進法」が施行され、7月には、それに基づく移転に関する基本方針と移転の対象とする機関等が閣議決定がされ、東京に集中した政府等機関のうち、ブロック機関や特殊法人などが、業務核都市へ移されることになった。

 三全総制定から10年を経た87年に策定された四全総においては、遷都問題については、引き続き検討するという形でのみ示され、その当時の民間での遷都論議の高まりからみれば、先送りにされた感もあった。しかしながら、こうした国土計画における時間的経緯が過ぎていく中で、80年代後半の東京への諸機能の過度の集中、それによる地価高騰の深刻化という状況に至り、88年の政府の総合土地対策要綱において「政治・行政機能等の中枢的機関の移転再配置について、幅広い観点から本格的検討に着手する」と明記された。そうした一連の動きのなかで、90年1月に、国土庁に「首都機能移転問題に関する懇談会」が開催された。移転懇で行われた作業は、その後の移転法の立法、移転調査会の検討のベースとなるもので、92年6月の最終とりまとめでは、新首都の規模を最終的に人口60万人、面積9,000ha、建設費用14兆円(うち5兆円は用地取得費)という数字を公表している(これは後に、移転審議会によって、人口56万人、面積8500ha、建設費用12.3兆円に下方修正される)。

 すなわち、88年7月という至近の時期に閣議決定による展都・分都型の東京一極集中の是正の方向を決めながら、その一方で、本格的な首都移転への手続きを政府は始めたのである。

 

表 首都機能移転の手続きに関わる一連の経緯

1964年6月

建設省が「新首都建設の構想」(河野一郎構想)発表

1975年2月

超党派の国会議員が「新首都問題懇談会」を結成

1977年11月

第3次全国総合開発計画で首都機能の移転再配置を国土総合開発政策上の重要課題に

1987年6月

第4次全国総合開発計画で一部政府機関の移転再配置を検討課題に

1988年6月

多極分散型国土形成促進法が施行、国の行政機関等の東京都区部からの移転を盛り込む

1990年1月

国土庁長官が有識者らからなる「首都機能移転問題に関する懇談会」を開催

     11月

衆議院、参議院で「国会等の移転に関する決議」

    12月

首相が「首都機能移転問題を考える有識者会議」の開催を決定

1991年6月

移転懇談会が「首都移転に際しては、政治・行政機能と経済機能を分離し、政治・行政機能に純化した新首都を想定する」ととりまとめ

    8月

臨時国会で衆・参両議院に「国会等の移転に関する特別委員会」を設置

1992年6月

「首都機能移転問題に関する懇談会」が新首都の規模と建設費用をとりまとめて公表

     7月

「首都機能移転問題を考える有識者会議」がとりまとめを公表

    12月

「国会等の移転に関する法律」が公布・施行

1993年4月

第1回国会等移転調査会を開催

1994年6月

国会等移転調査会が第1次中間報告(首都機能移転・その意義と効果)

1995年6月

国会等移転調査会が第2次中間報告(首都機能移転の範囲と手順・新首都の都市づくり)

     6月

連立与党3党合意

     9月

調査会の「基本部会」が移転先の選定基準などの審議開始

    11月

経団連が「首都機能移転の早期実現を要望する」提言発表

    12月

国会等移転調査会が最終報告(移転先地選定の9項目などが決められる)

1996年6月

与党3党と新進党が国会等移転法改正案を国会に提出、成立

1996年12月

国会等移転審議会スタート

国会等移転審議会による候補地の選定作業

1997年7月

財政構造改革の期間中である2003年度までは建設事業の財政資金の投入凍結を閣議決定

1998年1月

国会等移転審議会による一次候補地の発表

1998年初夏

審議会による候補地の現地調査

1999年秋

審議会による首都移転場所の発表(最終的には法律で移転を決める)

関連法案の整備、首都移転庁(仮称)の設置

2004年

新都市建設の開始(当初予定は2000年)

2014年頃

国会及び主要省庁の移転と国会の開催(当初予定は2010年)


● 背後にあるドライヴィング・フォース − 二つの思想

 

今回の首都機能移転の動きの背後には、思惑の異なる大きな二つの推進力が複雑に絡み合っていることが、その動きのゆくえを複雑にしている。

一つは戦後の国土開発の思想に乗ったものであって、その信念は、日本が近代国家となった明治以来の発想である基盤整備を主体とした公共事業としての建設行為が国家を作る(それには産業の活発化の意味も併せ持たれている)という理念である。この理念は、昭和37年の第一次の全国総合開発計画以来、日本全国の地域格差を是正するというテーゼのもとに、主として基盤整備を行いながら国土の開発を行わしめてきた。第二次の全総計画にあたる新全総では、現在の全国の国土の交通体系の全貌を描き出すことになる高速道路網、新幹線網の構想の全体像が示された。また、都市部と地方の地域間均衡を図るために、第一次での新産業都市の指定、第二次でのテクノポリス構想などで、製造業をテコとした工業開発で地方の振興を目指した。しかしながら、その結果は思惑どおりには行かず、都市部と地方の地域格差の是正はなされることなく、それどころか、東京とそれ以外の地域の対峙関係という形で格差がついていった。それが最も顕著となった80年代後半に、第四次の全総計画が作られることになるが、そこでは多極分散という概念を適用し、工業ではなく、業務機能の集積によって日本全国に東京型の拠点を育成しようというそれまでの全総計画の手法の方向転換まで図った。しかしながら、いずれにしても、国土の開発が国を興すという方向に変りはなく、こうした土木事業を伴う地域開発の考え方を仮に「国土開発思想」としておこう。

もう一つは、明治期に確立された中央集権型システムが戦時下に強化され、そのシステムが、戦後、東京を繁栄させる一方で、それ以外のすべての地方を衰退させてしまったという視点に立った考え方である。そのシステムとは中央政府が最終的な権限をもち、その結果、すべての地域の意思決定が中央でなされるため、地方では、補助金の交付に象徴されるように、自立よりも依存体質になり、さらには人材までもが枯渇してしまったという筋書きである。この解決には、中央集権の制度や機構を改め、地方に権限と財源を移す地方分権型の国家を作らねばならないことが自明の理である。しかし、その実現となると簡単ではない。東京の一人勝ち、すなわち、牽引力としての役割を東京に与えることによって日本の発展を可能にし、それを謳歌してしまった現在、そのシステムを自ら打ち壊すことは至難のワザであり、そもそも、そうしようとする意欲も希薄である。そうであるならば、物理的な所作で強制的に中央政府の移転を行い、それによって、中央をピラミッドの頂点としたシステムの刷新をするしかないというものである。これを仮に「改革推進思想」としておこう。


前者の思想は戦後の日本の驚異的な発展に寄与し、後者の思想はオイルショック後の経済の回復基調のなかで、すでに80年代の初め頃から存在していたといえよう。ではなぜ、この二つの思想が相乗し、90年代初頭に国会等移転の決議が現実に実行にうつされることになったのであろうか。1980年代に至るまでに東京から首都を他に移そうという提案は、戦後すぐの磯村英一氏による富士山麓遷都に始まり、部分的な首都機能の移転から一括移転するものまで、バリエーションは幅広くなされてきた。その多くは、肥大する東京を危惧してのものであった。すなわち、一極集中により、大都市問題が深刻となり、それを軽減するためには問題の発生となる過密を解消するための手だてを考えればよいという発想である。そのため、60年代に都市化が進み、都市における問題が身近になるほど提案は増加した。しかし、なぜそれが現実のものとならなかったかといえば、そもそも集積によってできた都市が、その集積のメリットを享受している限り、そのメリットを上回るデメリット、すなわち過密に起因する大都市問題が耐えらざるレベルにまで至らない限り、決断は簡単にはなされないのである。それは、マーケットメカニズムに乗って発展を続けてきた日本の性(さが)ともいえるべきものである。都心部のオフィス立地を規制したために、インナーシティ問題で都心部の産業が弱体化したロンドンの例などをみてしまうと、ますます、決断は遠のくのである。

しかしながら、オイルショック以来、長い間低迷していた経済も、80年代に入ると復活の兆しを見せはじめ、85年の国土庁の首都改造計画が分岐点であるかのように、東京における業務地需要が過大評価され、ヒト、カネ、モノの凄まじいほどの東京への一極集中が進行する。

国会等移転決議のタイミングは、実に止まることを知らぬこの一極集中進行下での心理的な恐怖感という背景のなかで行われた。いよいよ、過密に起因する大都市問題が耐えらざるレベルにまで至るのではないかという意識が人々の間に芽生えていたのである。特に、急速な地価の高騰などで、野党の社会党や民社党が、この問題に熱心であった。

こうして、二つの思想に乗ったグループの推進力という十分条件に、一極集中の弊害の顕在化という必要条件が加わり、超党派ともなる大多数の議員の賛成で必要十分条件が整い、国会決議の成就となるのである。

その期をとらえて、政治の側で音頭をとった金丸新氏は「国土開発思想」のグループの政治の側のリーダーであると考えるのに違和感はない。そもそも、政府は、第三次および第四次の全総計画で、ともに首都機能の移転の可能性と検討の必要性(もちろん遷都だけでなく、展都や分都も選択肢として含まれている)について触れており、それを一歩、政治の側で踏み込んで移転の決議をしても整合性はとれている。しかし、その契機として、全総計画とは直接の関わりのない、リニア新幹線実験線の山梨県敷設が決定されたという事実の存在は極めて大きい。莫大な基盤整備費を投じて完成する第二新幹線の沿線に移転先を求めるというには、あまりにも理由がつけやすい格好の題材だからである。

これに対して「改革推進思想」のグループはどうであったか。戦後の55年体制が崩壊し、大蔵省初め、中央官庁の不祥事が頻発して世の中に明らかになるのは、バブル経済が下降期に入った90年代前半のことであるから、この時点では、まだ既存の仕組みに対する批判は表立ってはいなかった。しかしそれ以前から、民ではない官主導の体制がいずれは破綻をきたすとの考え方をもっていた堺屋太一氏は、社会経済国民会議(後に社会経済生産性本部)のなかで、その改革の思想を温めてきており、同会議に設けられた新都建設問題特別委員会の座長として、スリムな政府の形成と国会の移転による新都(首都ではない)の建設という具体案を提示し、国会決議の後押しをした。バブル崩壊で既存のシステムが破綻をきたすことを事前に予見していたことは、至極、慧眼であったといえよう。

 

● 移転の論拠は崩れた


いずれにしても、国会決議の焦点は、集中の生みだす弊害に対する施策としての移転の有効性に行きつくことにあった。しかし、その後の時間的経緯は、残念ながら国会決議のなされた時期が、一極集中のピークであったことを示し、しかもこの後、もはや急激な集中の再現の可能性の低いことが判明しつつある。過度の集中によって生みだされる問題は、その元凶ともなる部分が消滅しつつある。

さらに、移転による新都市建設による物理的な一極集中是正の効果も限定的な小さいものであることが、具体的な数字によって、すぐに明らかにされた(東京都1994年、及び市川1995年)。国土政策における、地域間格差是正というテーゼは、首都機能の移転をもってしてもなしえない現実に直面したのである。しかも、経済波及効果としての土木事業の役割も、移転先にプラスの効果を生むものの、日本全国では、総体としてマイナスの効果となってしまう試算もだされ(東京都1999年)、経済団体が望むものとはならないのである。

一方、中央集権型システムの改変については、移転に先立って行われる省庁再編がスリムな政府を生み出さないことが明らかになり、また、地方分権についても、国からの機関委任事務が地方自治体の自治事務と法定受託事務に再構成されただけで、権限と財源の移譲が殆どなされなかったという結果に終わってしまった(地方分権推進委員会第五次勧告)。強制的な首都機能移転で既存のシステムの改変を図ろうという思惑は、すでに、移転を仕掛ける前に外堀を埋められてしまったのである。

現在、唐突に残っている論拠は、防災の視点からの新都市造りである。95年の1月に、その恐ろしさをまざまざと見せつけた阪神・淡路大震災の教訓は、日本人にとって忘れてはならないものであるが、それは人々が日々生活を送るすべての都市にとっての教訓である。首都機能を持った都市だけのものではない。

 

● なぜNOと言わなければならないのか


一極集中の弊害という必要条件のもとで、国土開発思想と改革推進思想という二つの思想に乗ったグループの推進力という十分条件が加わって必要十分条件が整ったのだとすると、既に一極集中の弊害が深刻なものでなくなりつつある以上、条件の片方が落ちてなくなりかけている。そして、より重大なのは、国土開発思想と改革推進思想のどちらをとっても、もはや首都機能移転の論陣を張るには、その説得力が失せつつあるという社会経済環境に周囲を囲まれてしまっていることである。

そもそも、国土開発思想は、右肩上がりの経済の発展の下で国家運営を行う時期に、最もその威力を発揮するものである。開発の潜在力が溢れているからこそ、地域格差の是正の名の下に、全国あまねく開発をおこない、また、スクラップ・アンド・ビルドをしながら施設の更新を行って、その次の需要を喚起してきたのである。ところが、経済の発展が一段落し、人口もピークをうち、高齢化が本格的となる成熟社会を迎えると、新規の基盤や施設の建設は、新たな維持・更新の負担を発生させることになり、発展どころか足かせを増やすばかりとなる。パイが広がるなかで行なわれてきた20世紀型の開発形態は終焉し、きたるべき21世紀は、あまり広がらないパイの中で、既存のストックを最大限に有効活用することがテーゼとなるのである。これは、量を追い求めることから、質を追求することへの大いなる価値観の転換を意味している。

改革推進思想にとっても、グローバリゼーションの進展のなかで、そのよって立つものが脅かされつつある。80年代後半に、特に国際経済の動きの中で東京の存在はニューヨーク、ロンドンと並んで世界の三極構造の一角を占めるまでのものとなっていた。しかしこれは、国内においては東京が突出して一極集中の弊害が顕著となり、東京以外の地方の衰退を招くという地域間アンバランスを助長し、これが改革推進思想の標的となったのである。

例えていえば、国内的絶対パワーである東京の力を削ぐことによって、国内の弱体化した地域や仕組みを改善しようとする考え方に近い。しかしこれは、日本の国際的役割と国力の維持(プレゼンス)という国際社会での日本の置かれた状況からみれば、安易な東京依存的な発想にしかみえない。そもそも、日本が国際社会でそれなりの地歩を固めてから、未だ間もないのである。プラザ合意以降の円の通貨としての価値の上昇がその証の一つだとしたら、10年を少し超した程度である。そして、その牽引的役割を果たしてきたのは東京である。国家の牽引力としての十分な役割を持てる国際的スタンダードの都市が、日本では東京しかないとしても、その東京が決して他の世界の有数の都市を圧倒的に凌駕するほどの力を持ち合わせているわけではない。むしろ、アジアの有力な都市の台頭で、その地位を脅かされている状況にある。これをみれば、21世紀に向かって、国家としてなすべきことは、東京を国内的なローカルな視点で揶揄するよりも、むしろ、経済、文化を含めたインフラが最低限整備されている(それもやっとであるが)東京を前面に打ち出して、国際社会でのプレゼンスの回復を期すべきものであろう。東京の繁栄は、国家にとっても、またそれぞれの地域にとっても利益となることを念頭におくべき必要に迫られている。

現在までに行われてきた首都機能移転の動きには、あくまでNOと言わなければならない。

 
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