基盤整備の今

『都政研究2004年10月号』より抜粋

東京の基盤施設整備における今日的課題

−東京オリンピックから40年、成熟社会における転換の思想−

●東京オリンピックと基盤整備


東京圏人口3千万人の時代を迎える1960年代にあって、東京の基盤施設整備を飛躍的に高める契機となったのは、1964(昭和39)年にアジアで初めて開催された東京オリンピックゲームである。オリンピックの準備のための費用のほとんどが、都市や国土のインフラ整備に振り向けられた。国のオリンピックに対する間接的事業費は約1兆円に上ったが、その約8割が新幹線、地下鉄、道路といった交通網の整備に使われた。


開催の5年前より始められた東京の基盤施設整備の中で、その後の市街地に大きな影響を与えたのは、市街地発展の骨格となるべき交通網の整備であった。とりわけ重視されたのは、急速に進むモータリゼーションに対応する形で行われた都市内高速道路網の建設、幹線道路の拡幅整備である。首都高速道路の建設、環状7号線の西側部分の開通、国道246号線(青山通り、玉川通り)など、羽田空港から都心、そして都心からオリンピック関連施設をつなぐ路線が優先的に整備された。1959年に都市計画決定されていた都内の高速道路網71キロメートルは、オリンピック開催時の直前に32キロメートルが完成にこぎつけた。


高速道路や地下鉄の整備だけでなく、水道や下水道といったユーティリティの水準もあがった。しかし、それは結果的に城南・城西地区の整備水準の向上を意味しており、城東地区が開発から取り残されたという地区的アンバランスが生じた。また、先を急ぐあまり、東京の市街地景観にとってはつらい課題を残すことになる。都心で歴史的にも由緒ある日本橋の頭上を高速道路が横切り、ウォーターフロント開発の素材としての川を干上げて河川底に車を通したのである。また、渋谷駅前、上野駅前、六本木交差点など東京の代表的なサブセンターの頭上に遠慮なく高架道路が横切り、その後の都市景観形成にとっての除去し得ない異物となった。かつての震災復興の遺産である昭和通りの中央分離帯も、スルーパスの道路用地として姿を消した。


オリンピックで変貌を遂げたのは基盤施設だけではなかった。道路整備で一番の恩恵を受けた青山通りに近接する赤坂、六本木、原宿などの現代的盛り場が台頭してきた。青山通り沿いは、国際化する東京のソフィスティケーションの代表的な市街地となるのである。

 

● エポックとしての東京の都市基盤整備事業


都市整備の規模と、その後の東京の都市構造への波及という点では、オリンピック関連の基盤施設整備(1964年)は、関東大震災後の復興事業(1923年)、戦災復興事業(1946年)に次ぐだけの東京の都市計画の歴史にインパクトを持ち得るものであった。東京の都市空間の変貌に大きな影響を及ぼした初めての整備事業は、近代化後の日本の初めての都市計画となった明治期の市区改正事業(1888年)である。その後の大正期に震災復興事業(1923年)までには35年を要するが、その後は、ほぼ20〜25年という四半世紀以内のインターバルでエポックとしての整備事業が行われてきたことになる。


東京オリンピック関連の基盤整備から40年、そうした大規模整備の機会が東京にまったくなかったわけではない。そうであろうかと期待されたのは、1980年代後半から90年代初頭にかけて行われた臨海副都心開発事業である。ところが、バブル経済破裂の後遺症ともいえる経済不況と財政の破綻、開発の起爆剤としての世界都市博の延期、そして最後には中止に至るというアンラッキーな状況の下で、東京の都市整備におけるエポック的政策として名を残すことにはならなかった。ただし、その開発が東京の都市空間の変容に全く寄与しなかったわけではない。すくなくとも短期的な完結としての成果を上げ得なかったことは事実であるが、各種ユティリティの共同構集中管理など、科学技術の粋を施した大都市東京の都市空間と都市構造への挑戦という脈絡からみれば、開発の構想はその先導の役割を果たしていた。むしろ、都心業務機能のベイエリアでの拡大という当初の開発目標からずれ始めた時点での修正に失敗し、東京都市圏というマクロレベルでの臨海地区のその後の位置づけを斟酌しえなかったのが、この開発の行く先をあいまいなものにしたのである。


もちろん鈴木都政下での多心型都市構造政策やその後の関連整備事業はあったものの、具体的な大規模な都市改造につながらなければ、都市空間全体に大きなインパクトは与えない。しかしその間、東京の都市空間が変化してこなかったわけではない。霞ヶ関ビルに始まる超高層ビルの建築は、80年代の終わりには新宿副都心地区に18棟も建立し、中曽根首相による規制緩和と民活導入政策の下で開発意欲を高めた民間は、大規模プロジェクトにより都市空間の変貌に確実に寄与していったのである。この間、行政主導の大規模基盤施設整備の実行という機会は、世界都市博の開催に失敗した時点で消えていた。政体の変化、震災、戦災といった東京全体の変革を求めるような劇的な都市整備事業を行うきっかけをもはや持ちえなかったのである。


市区改正事業では、1888年に公布された市区改正条例に基づいて実行に移されたが、財政難から事業規模は縮小し、主として近代都市に必要とされる道路や河川、上下水道といったインフラストラクチャーの整備に限定された。日本橋大通りの改良をはじめ、計画した道路などは当初の316本が88本へと減らされ、その規模は決して大きくはなかったものの、都市計画案の策定と事業としての実行という側面からみれば、近代日本における画期的な第一歩であった。


一方、震災復興事業は、後藤新平のもとで帝都復興院によって震災後7年間にわたって行われた。土地区画整理、幹線道路の建設、公園の整備などがなされ、事業区域の道路率は14パーセントから26パーセントに増加し、市域の公園面積も16パーセント増えるなど、今日の東京都心部の発展を支える都市基盤の多くが、このときつくられた。特に、昭和通りと靖国通りという、現在の東京都心東部における垂直方向と水平方向の主要な幹線は、この復興事業で実行に移されたものである。また、このとき設置された隅田川・浜町・錦糸町の三大公園は、52の復興公園とともに、今日でも貴重な東京の公園として生きつづけている。この震災復興計画は、区画整理を通じて、江戸から基本的に変わっていなかった街並みを近代的都市へ改善する上で大きなインパクトを与えた。


戦後の東京の復興計画は、終戦2ヶ月後の1945年11月に戦災復興院が発足し、戦災復興都市計画が構想されることで始まった。古くからの市街地に建つ老朽家屋などが戦災によって広範囲に消失した終戦直後は、関東大震災に次ぐ東京再建の絶好の機会でもあった。しかし、戦災復興院には復興の基本方針を審議する委員会が設置されず、戦災復興は関東大震災後の「帝都」復興より後退したものとなった。さらに、1948年の経済安定九原則、翌年のドッヂラインといった緊縮財政の開始に伴う国庫補助の削減により、その修正を迫られた。中核をなすべき土地区画整理事業は、当初の予定面積2万ヘクタール強が大幅に縮小され、実際に執行された区域は、新宿、池袋、渋谷、大塚、五反田、錦糸町などの駅前を中心とした1400ヘクタール弱と当初計画の6.8%にすぎなかった。公園計画も計画面積で58.6%へと縮小され、ほとんど事業化もされなかった。街路の整備についても、100メートル道路7路線を含む286路線の計画は、100メートル道路を削除して167路線へと縮小されたのであった。


戦災復興事業は、東京全体の将来土地利用と都市構造の方向を決めるべく大きな役目を担っていたにもかかわらず、最終的には駅前を中心とした部分的整備に終わってしまった。その失敗が、現在の混沌としたといわれる東京の市街地を生み出す元凶となったのである。むしろ、その後の東京の都市基盤に与えた影響を考えれば、オリンピック関連の基盤施設整備のほうが、市街地内の隙間ともいえる部分での限定的な作業であったが、モータリゼーションへ向けての受け皿を都心域に作ったという点で評価はしやすいのである。とりわけ、その出発点を築いた首都高速の都市活動への影響は大きい。現在、当時の32kmは約265kmまで延び、一日の交通量は約115万台を超え、東京都市圏で輸送される貨物の4割を担うまでになっている。

 

● 今、求められるインフラ(基盤施設)の整備課題


40年間の空白の後に求められる、これからの都市整備事業のキーワードは何か。
まず初めに、東京には依然として解決されない、いわば蓋然ともいえるテーマの存在がある。


@ 老朽化した都市空間の更新と統一的アイデンティティのない市街地の景観整備
A 依然として解決しない木造密集地域の抜本的整備と積極的な公園建設
B 事業化の進まぬ都市計画道路の事業具体化とそのための優先順位づけ


この三つは、いわゆる東京の基盤整備における常態としての整備課題ともいえる。@は疲弊した都市空間の刷新と質的向上という世界的レベルの都市にとっての全体的なテーマである。短期間に実現されぬ都市計画の現実に対して、都市再生特別措置法では都市再生緊急整備地域で、その解決の手法を提示している。街並み景観については、歴史的文化的に特徴のある地区を対象とするのはあたりまえのことだが、日影規制などで凸凹になっている幹線街路沿いの建物ファサードの統一のほうがより地域全体にとっては即効力をもつ。Aは都市の安心・安全のなかのディザスター・フリーの市街地整備のテーマである。都内には災害時の危険性の高い重点整備地区が6,000haもあり、そのうちの3分の1が重点地区とされている。都市再生本部でも密集市街地の緊急整備 (2001年12月)が都市再生プロジェクトとして決定された。また、街区再編まちづくりが東京都で制度化され(2003年3月)、行政の側での取り組みもより具体化し始めている。Bは都市の便利、快適、効率という基本的な機能維持のための基盤施設の水準確保のテーマである。世界の代表的な都市に比較して東京の道路率はよくてその7割程度、公園に至っては2〜3割だと耳にたこのできるほど聞かされている。東京の都市計画道路がすべて完成するには今のままの整備のスピードでは、百年はかかるという悲観論もある。東京の公園と緑地整備はとりわけ隅田川の東側で遅れている。防災対策の目的から白鬚東地区には8万人、亀大小では20万人収容可能な公園が造られた。戦後に造成されたメタセコイアあふれる水元公園というヒットもある。しかし、その市街地のど真ん中に日比谷公園クラスを造れないとインパクトはない。


こうして、都市空間の更新、市街地の景観整備、木造密集地域の整備、公園建設、都市計画道路の事業化は依然として最大の課題である。その解決を速やかに実行に移さねば、いかなる制度の提案も意味もなさないことになる。
これに加えて、ダイナミックな都市活動を支える都市空間の形成という視点で見たときのこれからの東京にとってクリアーしなければならない必然のテーマがある。強いてそれを絞り込めば、以下の五点になる。


@ 大都市圏という視点から見た基盤整備
A 少子高齢社会という視点から見た基盤整備
B 環境問題という視点から見た基盤整備
C 都心回帰という視点から見た基盤整備
D 国際競争力に打ち克つ質的向上という視点から見た基盤整備

「大都市圏」という広域での都市活動を支える仕組みを都市構造を支える骨格から考えれば、集積としてのエリア(拠点)とそれを相互に結ぶパス(交通網)が主要な要素となる。東京郊外の核都市連携都市軸における業務核都市と環状の道路網の組み合わせを思い浮かべれば分かりやすい。とりわけ基盤整備という側面からみれば、交通網の整備がそれにあたる。東京圏では、インフラの骨格における放射状方向、環状方向について、鉄道網の整備はほぼ完結している。これにたいして、道路についてはいわゆる三環状道路(首都高中央環状線、東京外郭環状道路、首都圏中央連絡自動車道)の整備が遅れている。いわば、東京オリンピックで先鞭をつけた都市内高速道の完結が待たれているのである。しかしそれに加えて、東京オリンピックで建設された首都高速の現状は、慢性の渋滞のなかで、車線の増加、老朽化のすすむ躯体の刷新などの差し迫った整備と、高質な都市空間に相応しくない構造物の形態変化の必要に迫られている。


環状方向の交通サーキュレーションの充実について、三環状道路のほかに、実はもう一本整備を急ぐべき環状道路がある。外環と圏央道の距離は20〜30キロメートル離れている。ところが、この二つの高速道路に挟まれた地域に、育成が遅れている業務核都市、すなわち核都市が立地している。そして、それらの都市を直接につなぐのが国道16号線である。ロードサイトの開発が急速に進むこの国道は、生活道路と幹線道路という2つの機能の充実が求められている。輸送力増強と環境問題を解決したグレードアップをすることによって、大都市圏郊外部の都市機能と都市活動を短期的に高める効果が期待される。


「少子高齢社会」への移行は、都市の基盤整備に新たな一ページを加えつつある。なぜなら、子供と老人という弱者を対象とした基盤整備は、成熟社会における最も重要な事項である量から質への重視というパラダイムを具現化するものとなっているからである。そのネットワーク網を完成させつつある地下鉄は、それが定時最短の輸送手段として認知されていても、エスカレーターやエレベーターといった補助手段と思われていたものが主役として存在しなければ用をなさないものとなりつつある。ユニバーサルデザインという言葉が一般化し、身体障害者への配慮が基盤施設整備の必要条件となっている。しかし、だからといって、十分な幅員をもたない歩道に貼りつく盲人用の点字ブロックをしゃにむに埋め込めば、歩行不能な車椅子利用者には新たな障害としかなりえないというトレードオフを生みつつある。しかも、歩道のカラーコーディネーションにおいても齟齬を生じている。バリアフリーへの施策、ユニバーサルデザインの具現と実現は、全体的な整合性において依然として本格的な有効打を打ちださないまま推移しているのである。


かつて、東京市区改正委員会委員長の吉川顕正の「意見書」に「意(オモ)フニ道路橋梁及河川ハ本ナリ水道家屋下水ハ末ナリ」とあり、これは道路・橋梁・河川の設計が基本で、それが定まれば他の水道・家屋・下水が容易に定められるという計画の手順を述べていると考えられている。


このような基盤施設の整備が都市のインフラの主役であるという考え方は、その後の多くの都市整備事業で、程度や範囲に違いはあるものの、等しく貫かれてきたのである。土木事業を主体とした公共事業の根幹に位置づけられてきたインフラ整備のこの確固たる前提が、ユニバーサルデザインの時代の到来で、ゆらぎつつあるとは百年前に誰が思ったであろうか。


「環境問題」重視の風潮のなかで、同じような価値観の転換が、「持続可能な開発」なる世界に共通する言葉を生みだしている。1972年にストックホルムで開催された国連の会議では、"かけがえのない地球(Only One Earth)"をスローガンとし、国際社会全体として持続可能な開発の実現に向けて努力していくことを決めた。その後の92年のリオデジャネイロにおける「国連環境開発会議(UNCED)」のアジェンダ21の発表などで示されたように、社会のみならず、国民のライフスタイル自体を環境配慮型に変えるための普及や啓発等に努力せねばならない時代に突入したのである。


すなわち、基盤整備は環境問題を無視してはできない状況に置かれているのである。開発=自然環境破壊=自然回復という必須の構図の中で、基盤整備とは自然環境創造であると考えねばならなくなってきている。


基盤整備という言葉は、早晩、基盤創造に変えねばならない日が遠くないかもしれない。都市内河川の水循環回復、日照を受けられない市街地の樹木育成、ヒートアイランドを生み出す建物や街路の改変、滞留する排気ガス排除の手立て等々、課題は山積みである。既に、東京都でも「地球温暖化阻止!東京作戦」、屋上緑化の義務化、廃棄物処理・リサイクルなどの政策を実施に移している。環境問題に対する認識と努力は評価に値するが、その抜本的な問題解決のためには、従来の建築基準法や都市計画法に頼ったインフラ整備では対処できないことは明からである。ところが、現代の技術革新のレベルをもってすれば、そしてそれなりの資金を投下すれば対応可能な姿は見えているのである。その実現のためには、「(都市にとっての)基盤整備」を「(人間のための)基盤創造」の思想に変えることが必要なのである。


大都市東京が遭遇している新たな局面は、「都心回帰」の現象の下で迫られている新たな基盤整備である。今、東京圏では人口が転入増に転じている。さらに、その大都市圏の中で、郊外から都心方面への人口移動が進んでいる。都心は業務機能、郊外は居住機能を分担するというデマケーションはくずれつつある。都心部への一極集中を解決しようとした分散政策の最終局面がそこにある。


2003年4月に、工業等制限法が45年ぶりに廃止された。大都市圏への集中を抑制する戦後の代表的な政策であった。「工業」とは工場であり、「等」は大学である。実は2006年に、日本全体でいよいよ人口が減少局面に入り、東京圏でも2010年から15年頃にかけて同じ様に人口減少が始まる。そもそも、2050年には、日本の人口は2割から3割減となることが予測されているのである。


今できること。それは、こうした成熟社会の到来のもとで、限られた資源を集中的に投下し、できる限り効率性の高い生産をし、効果を生みだすことなのである。もはや集中が悪であるという呪縛から解き放たれて、集積の効用を生かして一早い国力の回復が必要となっている。2002年6月に施行された都市再生法は、特に、そうした意識に立ったものであった。


都心には郊外に存在するような自然はないが、利便性はきわめて高い。都心のインフラの水準が高いことは、道路や上下水道などのユティリティーだけではない。教育、医療、文化、娯楽など、生活の幅を広げる多くの機能も充実しているのである。そして、そのことに気づいた多くの住民が郊外から都心方面へ移り住み始めている。兵站の伸び切った大都市圏の縮小、すなわちコンパクト化が現実のものとなりつつある。


都心における基盤整備の課題は、こうした新しい動きに対する答えをどうだすかである。東京都の都市づくりヴィジョン(2001年10月)では、都心の機能を業務機能という単一機能のみで考えず、職住遊学の多様な機能を有するものとし、都心の定義を広くしたセンターコア・エリア(その範囲を環状6号線あたりまで拡大)での居住環境の魅力拡大を目指している。その実現のための基盤整備では、平面稠密+立体過疎の東京の都市空間を、垂直高密+地上空地の確保+日照・通風など居住環境の確保というスキームが必要になる。緊急整備地域の都市再生特別地区では、その実現が容易となったのである。


世界を先導する都市として「国際競争力」に耐えるだけの都市空間の質的向上を図るためには、短期間での事業実施、それなりの整備費の投入というハードルを越えねばならない。高度経済成長期の都市改造は、東洋のヴェニスといわれた江戸の都市風景への惜別を加速させた。その時の負の遺産となった日本橋頭上の首都高をどけるのに一兆円かかるという試算もでている。しかしながら、どこまで都市空間を蘇らせるのかという問いに逡巡しているあいだに、東京は既にソウルに先を越されてしまった。ソウルの現市長の最大の政策課題は、都心の河川をつぶして建設した高速道路を除去して、新たな水辺空間を都心に生み出す、清渓川復元プロジェクトの実行である。


即効力としての国際競争力を生み出す空間は、陸海空の交通の要所に位置し、既存の都心から数キロの東京湾のウォーターフロント(ウォーターフロント都市軸と名づけられた)である。国際的な起業力を生み出すことのできる産業立地の用地が豊富となっているこの場所は、羽田(4本目の滑走路が完成されれば本格的な国際線の発着が開始)から成田へのアクセス、日本一のコンテナ埠頭をもつ東京湾、そして首都圏の将来の大高速道路網となる三環状道路のすべてが、この地域とかかわりをもっている。90年代初めに都心の溢れ出る業務機能を受けようとしたこの地が、商業、娯楽機能、居住機能の複合用途機能で復活しようとしている。巨大都市・東京は、センターコア・エリアとウォーターフロント都市軸の育成を図ることでそのポジティブな部分を引きだし、再び世界の三極構造の一角を固める期待が高まっている。

このように、東京オリンピックに伴った関連基盤整備から40年を経た今、東京では、かつてのようなエポックメーキングな都市基盤整備の機会がない状況を迎えている。ところが、それを語るときには、戦後の時間経緯のなかで、一億総中流社会の終焉という社会経済状況における新たな局面が発生してきたことを忘れてはならない。すなわち、需要に供給が追いつかない中で、とにかくレディーメードな都市空間を作ってきてしまった状況が、いよいよ人々の多種多様なニーズに合わせた高質なオーダーメードの都市をしかも迅速に作らねばならぬ局面におかれたのである。そして、その背後には技術革新の進む情報社会という与条件の変化も待ちかまえている。


過去4回の基盤整備のようなエポックがあるのかといえば、突発的な災害が起こること以外には考えにくい。その日を待つまでもなく、実は「国際競争力」という唯一の拠りどころのキーワードの下で、都市基盤整備の目標とその実施には量から質への大きな思想の転換が求められているのである。


「意(オモ)フニ道路橋梁及河川ソシテ水道家屋下水ノ整備デ都市インフラ整備ノ充足シタルコトナカレ」

 
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