Camera Club's History

Meiji univ. Camera Club

since 1935

1-1 surugadai kanda chiyoda-ku TOKYO Japan

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Camera Club's History!!

2005年に創立70年を迎えた明治大学カメラクラブ。
その歴史をpas à pas(70周年記念誌)をもとに記していきます。
今回はVOL.1「産声~戦争」と題して、明治大学カメラクラブの創立から第2次世界大戦までの歴史です。

vol.1 産声 - 戦争

産声



pasapas.jpg創部当時(パサパ70周年記念誌より) 昭和10年6月に、大橋正元、鏑木正明、服部一雄、阪井欽三、赤坂恵舜氏ら諸先輩方の努力により、写真部設立準備委員会が結成され、同年11月に「明治大学写真研究部」が誕生した。初代の部長として法学部の冠木精喜教授を、技術指導としては顧問に佐和九郎先生を迎えた。佐和先生は当時、写真界の第一人者であり、数多くの写真研究書を著しておられる方であった。
 写真研究会の発足にいたるまでには、3つのグループが関連していたという。それは、阪井氏、大橋氏らが所属していた広告研究会写真班、また写真を趣味としていた赤坂氏ら商学部の数名によるグループ、そして服部氏、鏑木氏を中心とした法学部の数名によるグループである。
 発足したからには次は部員を集めなければならない。部員獲得にあたっては、多くの学生に呼びかけて写真コンクールを催し、そのコンクールに入選した人たちを入部させたという。この催しはまずまずの成功を収め、部員も30~40名になった。
 発足当時はまだ部室内に暗室はなく、部室では主に写真展、例会などについてのことや、写真技術に関すること、部員獲得、金銭面のことなどが主な話題であった。
 写真展については大小あわせて年3回くらいで、特に昭和12年から始まった明治大学、中央大学、日本大学の3大学合同の「神田3大学展」によって、他大学の写真を鑑賞することにより刺激を受け、競争心が高められ、技術の向上につながったそうだ。
 また、慶應義塾大学などとの連合撮影会など、対外的な撮影会や、その他グループごとの小さな規模の撮影会も頻繁に行なわれていた。

写真発展期



 当時の作風の主流はサロン調写真であったようである。だが、リアリズム的な写真も撮られており、流れに縛られず個人個人が好きな分野をとっていたといえる。
 当時は、今とは違い、学生写真はプロとあまり変わらないほど、あるいはそれ以上に、社会に影響を与えていた。
 昭和10年代に使用されていたカメラはミノルタの二眼レフが主流で、その他、エキザクタや、スーパー・シックス、オリンパスなども使われていたようである。また、3円カメラといわれたベス単を使っている者もいたようである。
 当時の引伸機は、ほとんどがラッキーであったという。現像液はD-76が多く、微粒子現像にはDK-20、シーゼ第3、そして佐和先生が考案された佐和式現像液を使用し、いずれも自分で調合したという。印画紙はアグファや八重、染井等が多く、ベロナ、フジブロも割合使われていたが、現在のものと比べてラチチュードが狭く、すぐにかぶるのでかなり苦労したようだ。

戦争へ



 しかし、この昭和10年代は日本の軍事色が濃くなり始めたころである。
 昭和16年に第二次世界大戦へと突入すると同時に、写真研究会の活動も制約を受けるようになる。名称も「明治大学報国写真部」と改名されるが、資材等は足りない状況で、写真活動も思うようにできなくなった。
 しかも追い討ちをかけるように、学徒出陣、学徒動員によって、部員は激減し、報国写真部の活動は実質的に不可能になってしまった。

(パサパ70周年記念誌より抜粋)