「『丸暗記』再考」

   西川伸一  * 西川ゼミ機関誌『Beyond the State』 第4号(2003年)「巻頭言」 

 昨年12月のある研究会でご一緒した都内の某大学の先生から、ゼミで試験をし たという話を伺った。わがゼミでもそうだが、ゼミではふつう入室試験があるだけで、入って しまえば試験などない。ゼミ内の所定のルールを守り、あてられた報告を無難に こなし、卒論をきちんと提出すれば、単位が認定される(しかも「優」だ)。

 しかし、この先生はあえて試験を実施した 。理由は学生たちに知識を詰め込むためだという。悪名高き詰め込み教育を、そ れとは対照的な場である大学のゼミで行うとは、、。先生いわく「丸暗記はいけ ないというけれど、最低限のことは知識として記憶しておかなければ深い理解に つながらない」。この言葉を聞いて、久しぶりに目から鱗が落ちる気分を味わっ た。

 近年のわがゼミは比較的議 論が活発で、それは担当教員として毎回の楽しみであるし、同時にひそかな誇り でもある。下手な格好づけぬきに議論に口角泡を飛ばす光景は、私が信条とする 「スッピン勝負」そのままだ。

 ただ、その中で時折一種のストレスを感じることがある。それは議論が当事者間 のうろ覚えな知識に基づいて展開されるため空回りし、正確な知識でこの空転を 軌道修正する力が自分にないときである。学生が持参している電子辞書で用が足 りる場合もある(今度万車券をあてたら、いの一番に買おうっと)が、たいてい はそれでは間に合わない。記憶していれば、瞬時に片づけられるのに。

 ある本で医学部の学生の時間割が紹介され ていた(保阪正康『医学部残酷物語』中公新書ラクレ、2001年)。2時間で1コ マの授業が月曜から金曜まで午前2コマ、午後2コマ、土曜日も午前2コマと授 業がびっしり埋まっていた。医学部ほど詰め込み教育が徹底しているところはな かろう。人の命を預かるのであるから、当然のことではあるが。ここでの丸暗記 の素地があるから、医師たちは次々に患者をさばけるのだろう。

 受験勉強を終えてから、その反動で私は丸暗記を極力敬遠してきた。短縮ダイヤ ルに甘えて、新潟の実家の電話番号すら覚えていない。丸暗記するよりも本を読 んだ方が知識が増えると思っていたし、電話番号などメモをみればいいと記憶の 対象とは考えなかった。

 電話番 号はともかく、本は読んでもすぐに忘れてしまう。戦後の日本政治史に強くなろ うとあれこれ読み散らかしたが、エピソード的なことは頭に残っても、肝心の基 本的な事実関係はすぐにあやふやになった。ゼミで議論が混線したとき、このこ とはどこかで読んだんだけどなあと感じつつもそれ以上は思い出せず、やりすご すよりほかなかったことが何度あったことか。

 そんな折、「丸暗記せよ」とはまさに福音のようなお言葉であった。意識して暗 記しなければ、なかなか記憶は定着しないのではないか。ゼミの学生の名前はす ぐに頭に入るのに、同じくらいの人数しか出席していない国家論の受講生の名前 はなかなか覚えられない。暗記しようという気持ちが希薄だからであろう。

 というわけで考え方を改め、日本の政治・ 行政に関する基礎知識をいまさらながら丸暗記していくことにした。遅くともや らないよりまし。私の尊敬する青山学院大学の野口悠紀雄教授も「テキストを丸 暗記してしまえ」と説いている(同『「超」勉強法』講談社文庫、2000年)。

 手はじめに伊藤博文から小泉純一郎に至る 歴代首相を暗記した。いまは日本国憲法にとりかかっている。満員電車の中でも できるからいい。

 丸暗記の効用 をゼミの学生に教えないのはもったいないと悪ノリして、2003年度入室の第9期 生には春休みの課題として歴代首相を覚えてもらうことにした(その試験もやる !)。ゼミ学生に共通の予備知識を与えるのが狙いだ。

 願わくは、私のこのささやかな努力によってゼミの議論がさらに質的に向上して ゆくことを。 

2003年2月6日


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