二年目の教養講座について

   西川伸一  * 明治大学政治経済学部『政経フォーラム』第5号(1997年3月)掲載

 (一)はじめに

 一年次必修、通年四単位、土曜日開講の教養講座も九六年度で二年目を迎えた。講座がスタートした前年度、学生の受講態度をめぐっては、賛否相半ばする感想を耳にした。講義終了時には拍手さえ起こったと好意的にみる見方がある一方で、私語が多くて授業にならないと嘆く批判的な声もあったのである。これらはそのまま、教員間での教養講座の評判であったと言い換えてもいいだろう。対極的な意見がある中、教養講座のあり方は、基本的に九五年度を踏襲してもう一年継続されることになった。

 いずれにせよ、焦点は教養講座が今のままで、新入生に勉学の意欲をわかせることができているのかどうか、にあると思う。この観点に照らして、私が教養講座の現場で体験したことはどうであったか。以下、率直に告白することにしたい。

 (二)教養講座の現場

 九六年六月八日土曜日。私が教養講座を担当する日がやってきた。八時五〇分の少し前に和泉の教員室に行き、出席票を受け取り、第二校舎の六番教室に出向いた。教室を見わたすと、一時限目のせいか、まだ三分の二ほどは空席であった。早速、出席票を前から順に配らせ授業を始める。テーマは「現代国家をどうみるか」。

 授業開始後しばらくすると、続々と学生が入ってくる。彼らの多くは前には空席がずいぶんあるのに、そこには座らない。後ろに着席していく。そこが満席になると、壁に背をもたせて立っている。前の方が空いているから座れと促すと、そのまま地べたに座ってしまう(ジベタリアンというそうだ)。最後方に陣取っている連中は、まず聞いていない。友だちと何が楽しいのか談笑している。注意するとしばらくは静かになるが、五分と経たないうちにまた騒がしくなる。

 授業を始めて三〇分。私語は伝染するからタチが悪い。業を煮やして、聞く気のないものは出席票を提出して、出て行ってくれと言ったが、出ていくものはいない。出席票を入れる茶箱を教壇の前においたため、後ろからわざわざ前に来て提出して出ていくのは、しずらいらしい。

 やがて、電車の中のように携帯電話の着信音が響いたり、ここをどこと思ったか口笛を吹くものさえ現れた。だれかを捜しているのか、教室内を歩き回る学生。どうやら、格好の待ち合わせ場所になっているようだ。その都度、語気を強めて注意はする(正確に言えば、怒鳴り散らした)が、その効果も次第に薄れ、ついに一時間くらいで、「勝手にしゃべってろ!」と捨てぜりふを言う破目になってしまった。

 真剣に聞いている学生にとっては、こちらが怖い顔で注意ばかりしているので、落ち着かなかったに違いない。この一時限目だけで、温厚な(?)私が普段一年間に怒る量のすべてを使い果たしたような気がした。鳴呼、大学でしつけ教育をやらなければならないのか。

 要するに、かなりの学生は三分の二以上の出席というしばりがあるために、出席点稼ぎに出てきているのだろう。授業の内容などは二の次。それでも、私語をしながら授業に出ている学生はまだいいほうで、終了後やってきて、どさくさに紛れて、ちゃっかり出席票を出して帰るという、きわめて合理的な行動をとるものすらいる。彼らを規制することは物理的に不可能に近い。これでは出席を取る意味がない。むしろ、遅刻せず熱心に出席している学生の受講意欲をそぐことにならないか。

 二時限目には一時限目の反省に立ち、一計を案じた。学生に選択の機会を与えたのである。茶箱を教室の一番後ろの席においた。そして出席票を配る際に、これから三分待つから、出席票を提出するためだけに来たものは、名前を書いて後ろの茶箱に入れ出て行ってよいと告げた。その代わり、残ったものは私語をするな、と。案の定、今度はごっそり出ていった。これだけの学生が出席のしばりのために貴重な時間を割いてきていたのか、と暗澹たる気持ちにさせられた。

 確かに、半強制的に受講させ、その中から学生の向学心を引き出すのも教育であろう。が、そのために発生するノイズ(授業妨害、他の学生への迷惑など)を勘案すると、はたと考え込んでしまう。ゼミ程度の人数ならともかく、教養講座のように五百人からいる教室では、そのような教育的効果はあまり期待できないようにも思う。ともあれ、二時限目は策略が当たって、一時限目に比べれば少しはましな環境の中で授業を進めることができた。

 この二時限目で味を占めたので、駿河台でも同じように茶箱を教室の後ろにおき、授業の最初に退出を促した。また、同じ話を三回もすれば口は滑らかになるもので、この時間が一番納得いく授業ができたように感じた。私語はもちろんあったが、板書すると教室がシーンとなったりして、かえって薄気味悪くさえあった。

 (三)よりよい教養講座にするために

 コースに入る道案内としての講座をおく意義は大いにある。しかし、現状のままでは絶対にいけない。これが一日を終えての偽らざる感想だった。アナーキーな授業現場は、向学心に燃えて入学してきた学生のやる気を萎えさせてしまっている。実際に、授業の後、ある学生から、他の学生たちの受講態度の悪さに失望している、もう明大をやめたいのだが、という相談を受けた。これは極端な例としても、何か手を打たなければならない。

 まず第一に、出席を取ることはやめるべきだ。これならすぐにできる。(二)で紹介したように、出席票の提出は完全に形骸化している。代返も相当あることだろう。そして、出席票提出のみを目当てに出てくる学生が私語の温床になる。百害あって一理なしではないか。

 その際、気がかりなのは、受講生が一年生であることだ。彼らが一年間の教養講座を通じて、私語はもちろん、どんな非礼を働いても、大学の教員はそれらを容認してくれる、大学の授業とはこんなものだ、となめきることが怖い。二年次以降で彼らを授業やゼミで担当するとき、その心得違いを糾すのには相当のエネルギーを要することになろう。

 第二に、一クラス五百人というマスプロ授業を単線的に行うのは考えものである。あれだけの大教室では、学生は受講しているという自覚に乏しく、いきおい私語を誘発する。さらに、彼らは受身的に、その週に設定された一種類の授業を聞くしかない。

 代わりに、たとえば、前期終了二単位にして開講コマ数を複線的にしてはどうか。つまり、一時限目に二コマ、二時限目に二コマを置き、二種類の授業を同時に行う。同じコースが二種類やってもいいし、二つのコースがそれぞれ担当してもいい。重要なのは、学生に選択の幅を与えることである。これにより、彼らの授業への参加意欲は多少なりとも高まるのではないか。ちなみに、半期終了であるから、教員の負担は従来と変わらない。

 第三に、二一世紀初頭には高校まで完全週五日制となるような時代である。教室事情の逼迫もあろうが、土曜日の授業は避けるように組めないか。一時限目および二部三時限目の活用を望みたい。

 最後に。問題点ばかりあげつらってきたが、教養講座の果たすオリエンテーション的意味はやはり小さくない。数名の学生から聞いたところでは、一年のうちから、学部のさまざまな教員を知ることができていい、ゼミを選ぶときにも参考になるという。授業終了後、出席票にコメントを熱心に書く学生の姿も、見ていてすがすがしい。いっそうの工夫と充実が期待されるゆえんである。


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