『クルマ社会を批判する』

   西川伸一  * 浅沼ゼミナール『Zoon Politikon』第9号(1992年3月)

 ソ連が自滅した。我々は今後、「選択肢なしに生きること」を余儀なくされる。それは最近の「革命」という言葉の安売りに暗示されていよう(「革命児」という商品名のテレビが出た!)。別の言い方をすれば、和田春樹氏が提唱しているように、「世界戦争の時代」は終わりを告げ、世界史は今や「世界経済の時代」に突入したのである。そして、「唯一の超大国」として生き残ったアメリカは、もはや自国の経済力では「世界の警察官」としての戦費を賄いきれないまでに凋落した。バックス・アメリカーナはそう長くは続くまい。彼の地ではホームレスが60万ないし最大の見積もりでは300万にのぼるとも言われる。新たな主役を務めるのは「経済大国」日本である。

 山田洋次監督の映画『息子』を見た。社会的弱者を時にコミカルタッチに描く、山田洋次お得意の作風だ。その中でこんなシーンがある。田中邦衛扮する、いかにもうだつのあがらない零細企業の中年社員が取引先まで鉄材を軽トラックに乗せて運ぶ。これが彼の日課だ。この男、ハンドルを握ると途端に「経済大国」への不平不満が速射砲のように口をついて出る。館内はその都度爆笑。だが、そこには笑って済まされない一面の真理が潜んでいるように思われる。次の台詞もその< 1つだろう。いつもの渋滞にいらいらする男。前を見るとサーフボードを載せた若者のクルマ。今日は平日、こっちは汗だくで仕事をしているのだ。男は思わず叫ぶ。「遊びに行くんなら電車で行ってくれよ!」

 治安、衛生ともに行き届いたこの日本で年間1万人以上の即死者を毎年出している病気があると言ったら、人は信じるであろうか。だがこれは紛れもない事実なのである。交通事故はこれだけの生命を瞬時にして奪う。しかも日本の警察は、交通事故後< 24時間以上経過した死亡は交通事故死とはみなさないので、実際の死者数ははるかに多い。負傷者は80万を優に越える。「誰も不思議に思わない。」この不感症が怖い。

 事故の残酷さだけではない。クルマ社会はグロテスクな社会だ。近所の団地では公園を潰して駐車場がつくられた。子供たちが室内でファミコンゲームに熱中するのを非難する権利が我々にはあるのか。デパートの駐車場ビルで働く老人たち。ビル内に滞留する排ガスが健康によかろうはずがない。彼らのことを「生きがい事業団」と呼ぶとは何という皮肉か。さらに、車社会の極致アメリカの例を挙げよう。ジョーロビースタジアム。言わずとしれた< NFLマイアミ・ドルフィンズの本拠地だ。テレビで見ると、まずスタジアムの威容に圧倒される。だが、ショットが上空のヘリからのものに変わると、異様さに圧倒されるのだ。スタジアムの回りには駐車場以外のものは一草一木見当たらない。

 モータリゼーション社会。これを可能にしたのは「フォード・システム」と呼ばれる工場内の作業管理方式である。大量生産< (流れ作業)と高賃金を特徴とする。この命名が自動車王フォードに由来することは言うまでもない。アメリカはフォード主義を工場内にとどまらず、全社会的に採用した最初の国であった。「大衆消費社会」あるいは「ゆたかな社会」の誕生である。そこでは、住宅、自動車、家電製品が消費財市場の中心をなしていた。

 第二次世界大戦後、「フォーティズム」は「栄光の30年」として世界的に開花した。日本における「三種の神器」、「高度成長」を想起されたい。「フォーティズム」が、経営学の専門用語のみならず、< 19世紀資本主義とは別個の資本主義体制をマクロ的に指示する概念として用いられている所以である。この「フォーティズム」をキー概念にして、現代資本主義を説明しようとする経済学がある。レギュラシオン理論という。「レギュラシオン」とはフランス語で「調整」の意。その問題意識はマルクスの直観に、つまり「資本主義ほどに矛盾に満ちた再生産様式において、いかにして蓄積が可能であるか」という点にある。彼らレギュラシオニストは、「全般的危機論」のような“慰安法”に与することなく、「蓄積体制」と「調整様式」というタームを用いて、先の問いへの回答を見だそうとする。

 それによると、戦後資本主義は「フォード主義的蓄積体制」と規定され、その矛盾は「独占的調整様式」によって調整されてきた。調整にあたる諸制度とは、団体交渉制度、管理通貨制度、寡占的大企業体制、ケインズ型「挿入国家」、バックス・アメリカーナおよびブレトン・ウッズ体制である。このクルマ社会はフォードというエンジン< (大量生産)、ベヴァリッジというオイル(社会保障)、およびケインズというアクセル(景気対策)で疾走した。だが彼らの分析では、フォーティズムは1973年の石油ショックを契機に危機を増幅させ、今や「資本主義の構造再編が問われている時代」に当面している、という。端的に言えば、規模の経済による生産性の上昇が鈍化し、労働者への高賃金を支え切れなくなったのである。

 かくて「世界経済の時代」は「アフター・フォーティズムの時代」と換言できよう。そして、日本におけるそのヴァリアントは「トヨティズム」である。

 「トヨタ」といえば、「カンバン方式」に代表される徹底した効率追求を連想する。「ソニーイズム」、「フジツーイズム」といった言い方もされるが、含意は同じであり、日本の「含蓄体制」の見事なメタファーに違いはない。つまり、経済的効率の高度化によって、フォーティズムの危機を乗り越えようとするものである。それをいいだもも氏の評言でまとめるなら、「現代資本主義の発展様式とは、労働と生産現場における一切のムダの排除であり、消費=生活現場におけるムダの制度化である」ということになる。チャップリン『モダンタイムズ』の驚異的な現代版、「ウルトラ・フォーティズム」。これが日本社会の生理であり病理である。サービス残業は言うに及ばず、過労死はその陰画の極み。< 21世紀の旗手たる「日本的経営」のメルクマークはかくの如しだ。

 とはいえ、「選択肢なき」我々はトヨティズムの僕になるしかないのか。日米首脳は「フォーティズム―トヨティズム体制」の維持・強化に必死だ。その世界的拡大は地球規模での破壊、混乱に至るにもかかわらず。< 92年1月の日米首脳会談は「自動車サミット」と揶揄され、ブッシュ大統領は「自動車セールスマン」に変身した、と皮肉られる始末。宮沢首相のトヨタとの昵懇なつながりは、佐高信氏が指摘するとおりである。

 トヨティズムは手強い。だがその「車検」が必要なのだ。クルマ社会を批判するのはその第一歩である。それに代わるオルタナティブが準備できていないのなら、せめて件の中年男よろしく「遊びに行くんなら電車で行ってくれよ!」と叫ぼうか。

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