「ケータイを持ったサル」の時代に

   西川伸一  * 明治大学専任教授連合会『明大専教連の歩み その三』(2004年)107-110頁

●ゼミ住所録におけるケータイ登録史

 先日、わたしの一部ゼミの卒業生(1996年3月卒)からメールが来て、次のようなことが書かれていた。

「最近の大学生は、私の時代と変化がありますでしょうか。なんか、20代前半の人と話すと異星人に感じるんですよ。価値観が違うというより、全く重ならないような。ちょっと怖いです」

 その彼とて、まだ30代そこそこのはずである。それでもこれほどのジェネレーション・ギャップを感じるとはどういうことだろうかと、はたと返信に困ってしまった。あれこれ考えあぐねて思い当たったのは、携帯電話である。

 わたしの一部ゼミの住所録を調べてみると、第1期生を迎えた1993年度から1997年度のものまではゼミ学生の氏名、住所、電話番号が記載されているのみである。B4判1枚に余裕で収まっている。

 ところが、わたしが在外研究から帰って再募集した1999年度のそれには携帯電話の番号が加わる。さらに、2000年度になると、Eメールアドレスが追加され、2001年度ではメールアドレスを複数載せている学生も現れる。いわゆるケータイメールも、学生間のコミュニケーション手段として一般化したのであろう。当然、住所録の行数は増える。ここでついに、わたしの一部ゼミの住所録はB4判2枚を要するようになってしまった。

 2002年度には住所録のフォームが一新され、「電話番号/パソコンのメールアドレス」改行「携帯電話番号/ケータイのメールアドレス」と表記の統一が図られた。そして、この年度の住所録ではゼミ学生全員の携帯電話所持が確認できる。より詳しくみれば、その前年度の住所録にも、3年生は携帯電話の番号を全員申告している。

 すわなち、わたしの一部ゼミでは、2001年度の3年生から携帯電話皆所持の「成熟市場」となり今日に至っている。

●着信音とかく闘えり

 一方、わたし自身の授業などでの記憶をたどると、ゼミの住所録の移り変わりが学生の間でのケータイ普及のやや遅れた後追いであることがわかる。

 政治経済学部の1年生必修のリレー講義であった「教養講座」(現「総合講座IA/IB」)を、わたしは1996年6月に担当した。その現場での学生たちの乱痴気ぶりは、学部刊行の『政経フォーラム』第5号(1997年3月)に「二年目の教養講座について」と題して記した。その中で、わたしはこう書いている。「やがて、電車の中のように携帯電話の着信音が響いたり、ここをどこと思ったか口笛を吹くものさえ現れた。」

 そのころ、わたしはまだケータイをもっておらず、授業中に電源を切らない学生たちの行為を理解できなかった。他の授業でも着信音が鳴るたびに口酸っぱく注意をした。たとえば1997年5月9日の日記には、「和泉へ。授業。携帯電話の呼び出し音が3回もなる。不快さで授業へののりが今一つだった」とある。その結果、『明大タイムス』第32号(1997年7月)にはわたしの授業について、「授業態度は超キビシイ。大教室の授業にもかかわらずわずかな私語にも敏感に反応し怒り出す」と書かれてしまった。

 後期試験の監督をしていて、教室を間違えた学生がケータイを取り出して、友だちにかけて教室番号を確かめる姿に目を丸くしたのもこの頃だろう。いまはなき7号館の講師控室で、あるベテランの先生から「見えない首輪につながれているようなものですね」とのケータイ評をうかがい、深くうなずいたことも覚えている。

 ケータイ着信音との闘いは、マナーモードおよびケータイメールの普及とともに一時休戦のような状況にある。かくいうわたしも、ケータイの魔力に勝てず、2002年の2月以降、頻繁に利用するようになった。2002年度のゼミの住所録からは、わたし自身の携帯電話の番号とケータイメールのアドレスも載せるようにした。

 マナーモードのまま電源を切り忘れてしまい、ゼミ中にその振動音がして頭をかいたこともある。もう学生をきつく注意できない。いまではゼミがはじまる前に自分のケータイを取り出して、電源を切ってみせ、「みなさんも切ってくださ〜い」とやさしくよびかけている。ああ、情けない。

●「サル化」する学生たち

 さて、2003年にベストセラーとなった正高信男『ケータイを持ったサル』(中公新書)は、ケータイを手放せない現代の若者たちを「サルに退化している」と説明する。

 それによれば、サルのサルたるゆえんは、自分が生まれた群れという「私的領域」で一生を過ごすことにある。これに対して、人間は「自己実現を遂げるため、家の外に足を踏み出す」。いいかえれば、人間は「公的領域」を明確に意識し、そこでは各人は、自立して公のルールに則って行動することが当然の前提となっていた。

 この基準からすれば、電車の中などの「公的領域」で、わが家にいるのと同じ感覚でケータイで会話をしている輩は、「人間らしさを捨て、サルに退化している」のである。「公共空間に出ることを拒絶している姿」にほかならない。

 前出のわたしのゼミのOBが「異星人」と評したいまどきの若者は、さしずめ「猿の惑星」の住人だったのであろう。

 同書の筆者・正高氏(京大霊長類研究所教授)は、「サル化」の原因を母子密着の超・過保護な子育てに求める。つまりは、母親がわが子かわいさに、子どもを甘やかし過ぎたのだという。

 とすれば、わたしの「超キビシイ」授業も明大生の「サル化」をくい止めることに、いささかなりとも貢献したのかもしれない。あるいは、「公的領域」と「私的領域」にはくっきりした境界線があることを彼らに気付かせることが、「人間らしさ」を取り戻すための唯一の処方箋となるのか。

 ただ、こうした主張は、ともすればある陣営を勢いづかせることにもなりかねない。2003年の衆院選での争点の一つは、「公共心の涵養」などを盛り込んだ教育基本法改正の是非であった。「公共心」から「愛国心」へはほんの一歩である。

 「サル化」を断ち切るという名の下に別の目的を遂げようとするサル知恵には、ゆめゆめ引っかかるまいと申年の年頭に思う。


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