「機会不平等」許すまじ

   西川伸一  * 『QUEST』第13号(2001年5月)掲載

 恐ろしい本を読んだ。斎藤貴男『機会不平等』(文芸春秋、2000年)である。教育改革国民会議の座長でノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈氏が、著者のインタビューに答えていわく、「ある種の能力の備わっていない者が、いくらやってもねえ。いずれは就学時に遺伝子検査を行い、それぞれの子供の遺伝情報に見合った教育をしていく形になっていきますよ」

 教育の原点は生得原理を否定することではなかったのか。人は親を選んで、すなわち遺伝子を選んで生まれてくることはできない。本人の努力ではどうしようもない要素に基づいて社会を組み立てることを、思想として放棄したのが近代の民主主義社会であったはずだ。それに代わって重視されたのが機会平等に基づく業績原理である。しかし、江崎氏はじめ、竹中平蔵氏、中谷巌氏といった現在の売れっ子学者の耳ざわりのいい発言も、よく吟味すると機会不平等を肯定する観点に満ち満ちていることを、本書は明らかにしている。

 「みんなで平等に貧しくなるか、頑張れる人に引っ張ってもらって少しでも底上げを狙うか、道は後者しかないのです」(竹中氏のコメント)

 この生得的に「頑張れる人(子ども)」を優先的に育成し、それ以外の子ども(「非才・無才」---三浦朱門・教育課程審議会前会長のことば)は彼らの邪魔にならないようにほどほどの教育を与えればよい、というのが「ゆとり教育」の真の意図なのだ。不平等を是正するのではなく、むしろ広げたほうが社会の「活力」につながる、、、?。今回の「教育改革」はそのためのシステムづくりと位置づけることができる。たとえば、「選択」が強調されるが、県内全域を通学区域とする「県立中学」(高校に併設、中高一貫教育の一形態)を選べるのは、生得原理に恵まれた子どもたちがほとんどではないのか。

 以上の考え方の源流をたどっていけば、社会ダーヴィニズムに行き着く。アダム・スミスの「見えざる手」を支持したダーウィンは、市場と同様に自然界においてもそれぞれの生物は利己的に自己の利益を極大化することで、合理的な調節を行っていると説いた。すなわち、自然淘汰である。

 19世紀のブルジョア階級は、ダーウィンの主張をふたたび社会へと適用しなおして自らの経済行為を正当化した。労働者階級に対する搾取も帝国主義的侵略も「合理的な」自然淘汰のプロセスであり、自分たちの利益極大化は結局は、社会にとって好ましい結果をもたらすことになるのだ、と。21世紀のブルジョア階級やそのスポークスパーソンの学者たちがさかんに言いふらしている「グローバリズム」は、実はこの焼き直しでしかない。もちろん、現在の「教育改革」でもくろまれているのは、こうしたイデオロギーの刷り込みであろう。

 「わたしたちの教育改革」が求められるゆえんである。

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