書評:日本裁判官ネットワーク『裁判官は訴える!』(講談社、1999年)

   西川伸一  * 『QUEST』第5号(2000年1月)掲載

 テレビのニュースをみていると、ときに法廷が映し出され、黒い服(「法服」という。)を着た3人の裁判官がコワそうな顔して前をにらんでいるシーンにでくわす。これから裁判がはじまるのだ。ふだん裁判官に「会う」のはこのときくらいである。私にとって、裁判官とはプロ野球選手や芸能人と同様、テレビのなかの存在にすぎなかった。

 それでも、プロ野球選手や芸能人ならば、スポーツ新聞や写真週刊誌が競って私生活を暴露してくれる(これはこれで批判すべき事態だが)ので、まだ「身近」な感じがしないでもない。しかし、裁判官となると高貴で縁遠いイメージしか抱けず、そこで好奇心は萎えてしまう。法服を脱いだ彼らのことなど、想像する気さえ起こらなかったのである。

 ところがある日の夕刊(朝日新聞96年6月12日)に、「裁判官は『超』多忙 訴訟取り下げ『無上の喜び』」という見出しのもとに、裁判官の勤務ぶりや日常生活がアンケートへの回答をまとめたかたちで紹介され、それまでの認識を改めるきっかけになった。

 どうやら裁判官もまた、仕事に追いまくられ、家庭を犠牲にすることに心を痛めている、どこにでもいそうな社会人らしかった。

 本書はそのアンケート結果を裏付けるかのような、12人の現役裁判官(うち1名は預金保険機構に出向中)による現場からの発言である。

 まず、裁判官、裁判所について知らないことだらけだと痛感した。

 たとえば、テレビでおなじみの、法廷の壇上(「法壇」という。)に裁判官が3人すわっている場合、真ん中は裁判長、テレビで右側に映っているのが「左陪席」といわれ、裁判官になって5年未満の若い判事補である。判事補とは実務経験10年以下の裁判官をいう。これに対して、画面で左側が「右陪席」で、少なくとも5年以上の経験のある裁判官。

 裁判所は、全国に50ある「地家裁」(地方裁判所と家庭裁判所をあわせてこうよぶ。)、その支部(裁判官常駐のもの146)、さらには簡易裁判所(簡裁判事常駐のもの369)を含めると、北は稚内から南は石垣島まで全国各地にある。それゆえ、裁判官は転勤稼業であり、3年ないし4年のローテーションで全国的に異動させられる。

 そして任地と昇給によって、裁判官は人事管理されている。判決がたまると一定の期間ごとに報告され、事件処理件数の少ない裁判官は任地の決定や昇給で不利な扱いを受ける。そこで、「多くの裁判官は事件処理一覧表を眺めて一喜一憂しながら、馬車馬のごとくパソコンやワープロのキーを叩き、『地獄』の日々を送っている」とのこと。

 これでは、"手抜きの判決も書いたことがある""超多忙な任地を去る日を待ちこがれていた"と告白されても、「やむをえないかな」と思えてしまう。1年で一人200件前後の事件を抱えているという。裁判官がまったく足りないのだ。約50年前と比べて裁判官は1・3倍程度しか増えておらず(98年度で2919名)、諸外国と比べても日本の裁判官の少なさは歴然としている。

 そんななかでも、裁判官たちは納得のいく判決をめざして努力している。事情のある被告にボランティア活動をすすめ、それを量刑に考慮して執行猶予つきの判決にもちこんだ"アイデア判事"や、自転車や徒歩で紛争現場を検証して供述や証言の理解に役立てている"足で稼ぐ判事"など。

 また、妻が障害者となったため、家事、育児を一人で背負い込みながらも、なんとか職責をまっとうしようともがく裁判官の姿には、涙腺がゆるんでしまった。「病身の家族をかかえて転勤する辛い生活」だが、それゆえに「裁判を受ける当事者、刑事被告人の家族、被害者の遺族などの痛み、苦しみが身にしみる」ようになったといい切る。

 ところで、私は死刑制度には反対だが、死刑が最高刑として存在する以上、裁判官としては「極刑もやむをえない」と言い渡すしかない、極悪非道の事件にもぶつかる。法律や判例にしたがって、淡々と判決書の主文に「死刑」と書き込むのだろうとばかり思っていた。

 しかし、それは大きな間違いだった。裁判官は判決ロボットではない。自らの判決が人を死に追いやるのに、感情が動かないはずはなかった。「何か被告に有利な事情はないか」と無期懲役にできる理由を必死で探す裁判長。その人間味にほっとさせられた。

 彼らに共通にみられるのは裁判官以前の、人間としての良心を大切にする姿勢である。その心のあり様を知り、裁判官という職業に近づけたことは、大きな収穫だった。

 一方で、裁判官が社会運動への参加にきわめて慎重なのには驚かされた。裁判所法が裁判官に「積極的に政治運動をすること」を禁じていることが足かせになっている。野鳥の会に加入するのでさえ、「政治的に中立でありえない」と心配しなければならないとは。 裁判官自身の団体でさえ、本書を執筆したメンバーが加わる「日本裁判官ネットワーク」の結成が、「日本で初めての裁判官団体」として新聞ネタになるになるくらいなのだ。

 法曹一元制(司法修習を終えて裁判官になる現行のキャリア裁判官システムをやめ、一定期間の経験をもつ弁護士などを裁判官にする制度)をはじめ司法改革についても、現場の裁判官ならではの提言がなされており、示唆に富む。


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