書評・葉青『慟哭のリング』(読売新聞社、1998年)

   西川伸一  * 投書で闘う人々の会『語るシス』第3号(1998年9月)掲載

 子どもの頃、父親と一緒にテレビでよくプロレスを見た。母親の冷たい視線を浴びながら。しかし、場外乱闘で選手が血だらけになって、両者リングアウトというひどい試合も少なくなく、ある時からうんざりしてふっつり観戦をやめてしまった。どうせ八百長、勝負は前から決まっている、手に汗してどうする、という気もあった。

 一般紙のスポーツ面にもプロレスの記事は載らない。プロレスは演出、やらせ、興行であって、まともなプロスポーツとはみなされていないからだろう。これに対して、中国のマイノリティ出身で現在は東大大学院に在籍中の筆者は、「決して演技であろうはずがありません」と言い切る。筆者のそんな思いをこめた女子プロレス賛歌が本書である。

 中国残留日本人を母にもつ藤葉紅華(リングネーム紅龍華)が、中国拳法をひっさげ女子プロレスの門をたたき、やがては東京ドームでのチャンピオンズ・トーナメントを制するまでを描くサクセスストーリー。そこに様々な選手たちの人生が織り込まれる。紅華の最大のライバルとなるベトナム難民だった隻腕選手、ベトナム戦争に従軍したアメリカ兵と日本人女性を両親とする選手、父が女子プロレスの元興行師という在日韓国人選手、日本人レスラーとメキシコ人女子レスラーの間に生まれた姉妹選手、筑豊炭鉱の子だくさん家庭出身の選手、レスラーとしての致命傷から再起をはかる中堅選手、などなど。

 薄幸な少女たちが自分の夢を実現するために真摯にプロレスに取り組む姿が胸を打つ。練習や巡業の厳しさ、先輩レスラーのねたみとリンチまがいのいじめ、正統派とヒール(悪役)に興行主の思惑がからむ複雑な人間模様・・・。その中でも彼女たちは徐々に、「入場料を払い試合会場に来てくれるファンに対して、責任感と義務のようなもの」を意識し、一人前のプロレスラーへと成長していく。試合の場面には数々のプロレスの技が出てくる。ボディスラムとバックドロップくらいしか覚えていない私には、その情景を思い描けないのがくやしかった。ともあれ、筆者のプロレスへの入れこみようがよくわかる。

 しかし本書はそれに終わらない。文化大革命、ベトナム戦争、天安門事件、在日コリアンへの差別、帰国後の中国残留日本人が直面する冷酷な現実、さらには「国家」「民族」といった重いテーマまで登場人物に語らせている。たとえば「国家や民族とは実は、一つの不確実な共存集団の自己防衛のためのシンボルであり、曖昧な個人を都合良く支えるための幻想」なのだ、と。

 スポ根ものめいて説教くさい。話ができすぎの感も否めない。誤植もやや目立つ。とはいえ読後のこの爽快感はなんだろう。思うに、これこそプロレスがファンを引きつける魅力なのではないか。小さな抑圧に囲まれた終わりなき日常を生きる人々が、プロレスに熱狂することでそのしこりを「カタルシス」する。筆者によれば、滞日中の中国人は夢中になってプロレスを見るという。外国暮らしでたまるストレスは、私自身いま体験しているところだ。

 ではプロレスは八百長なのか。私の尊敬するジャイアント馬場も、先輩レスラーに対して「勝ってはいけない雰囲気があった」と告白している。確かにグレーな部分はあるかもしれない。しかし、長銀救済をはじめ数々のいかさまを目の前に、だれがプロレスを笑えよう。それに引きかえ、プロレスに感動して明日への勇気を奮い立たせる人々のなんと健全なことか。

 さて、私は帰国までに何度この本を開くことだろう。帰国後にどなたか後楽園ホールにごいっしょしませんか。


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