書評:石井伸男・村岡到編『ソ連崩壊と新しい社会主義像』(時潮社、1996年)

   西川伸一

はじめに

 ここ数年来、評者自身は「社会主義」について考えることをサボってきた。現代資本主義の矛盾の凝縮体が、クルマであることに気づいて以来、その問題性の告発に心を奪われてきたからである。日本国内だけで、交通事故後24時間以内に死亡する人が毎年1万人を超える(ただし、96年は9年ぶりに1万人を割り込んだ)という事実だけをとってみても、クルマが生命の尊厳という公理と相容れないことは明らかである。エンゲルスのいう「社会的殺人」の現代版であろう。
 われわれはクルマを克服した「新しい社会像」を構想すべきではないか。もちろん、クルマ産業は現代資本主義の基幹産業であるから、クルマ社会の克服は、単に乗り物を乗り換えるというミクロなレベルにとどまらず、現代資本主義のメカニズム全体を
乗り換えるというマクロなレベルにまで話は及ぶことになる。となれば、この「新しい社会像」の「社会」と「像」の間に「主義」が挿入されることになるのか。
 率直にいって、この点についてはまだわたしの中で十分整理がついていない。帰納法と演繹法という言葉を使えば、帰納法をとり、クルマ社会の個々の具体的な事実から出発して、代わるべき社会像を模索できないものか、とは思っている。一方、「新
しい社会主義像」をタイトルに掲げる本書は、むしろ演繹法的で、マルクスもはっきり提示できなかった「社会主義社会」のラフデザインを、1996年の現実から描こうという意欲的な論文集である。

  1 石井伸男「社会主義と正義論」

 上で述べたわたしの関心からすれば、この論文は興味深かった。今日、生産力至上主義が破綻していることは明かである。生産力はもはや天井にぶつかっている、天井を突き破れば地球環境は崩壊。さらには、この天井を下げることが求められている。
 パイの拡大はもはや考えられず、切り方をめぐる合意によって、人間の無限の欲求をコントロールしていかなければならない。別のいい方をすれば、生活スタイルの転換(脱クルマをそこに含めたい)が必要とされている。その際、人々が納得ずくで「禁欲」するためには、石井氏の主張によれば、価値規範の自覚、すなわち「正義」という観点が不可欠である。「なすべきこと」をわきまえて、「できること」「したいこと」を考えよ。
 なにを当たり前のことを、と思うかもしれないが、マルクスにおいては、正義論ははなはだ弱かった。「共産主義社会の高度の段階」になれば「富が泉のようにあふれ出す」のであるから、「禁欲」は論理的に不要なのである。とはいえ、それ以前の「低次の段階」ではそうもいかないので、「労働に応じた分配」原則が示された。アリストテレスの「分配的正義」につらなる考え方である。
 しかし、これでは「働かざるもの食うべからず」となる。働けない人はどうなるのか。実はマルクスには「労働不能者等のためのフォンド」という記述もあり、ここにマルクスの正義論が伏在している、この点を踏まえて現代の正義論を深化させるべきだと石井氏は説く。資本主義の諸矛盾を生産力の上昇によっては解決しえない今日、「正義論」に学ぶべきことは多そうだ。なお、この観点は村岡到論文「『価値・価格論争』は何を意味していたのか」では、「道徳的・社会的基準」として具体化されている。

  2 ブズガーリン「現代における社会主義の可能性」

 その意味ではこの論文の次の1節はややひっかかる。社会主義社会は「これまで支配してきた資本主義体制に比べて、より効率的で、より公正で人間的で、より民主的な社会」と規定される。が、現代日本に暮らしている者としては、「資本主義体制に
比べて、より効率的」な体制など想像したくもない。効率追求の極みがトヨティズムで、それは地球規模の「正義」と両立しない。現代資本主義が達成した「効率」を「禁欲」することこそ、われわれのなすべきことなのだ。正義論の観点を「より公正で人間的」に含めているのかもしれないが。
 本論文に用いられる言葉は個性的だ。旧ソ連体制を「突然変異的社会主義」とし、資本主義の諸矛盾の蓄積と革命運動の不振のギャップを「20世紀の罠」と名づける。とすれば、字句どおりの解釈では、ソ連は「突然変異的」という形容詞はつくが、社会主義社会だったということだ。「過渡期」と位置づける他の執筆者とは見解の異なる点であろう。
 加えて、ブズガーリン氏は社会主義的変革の展望を「人民民主主義革命」と「社会主義革命」の二段構えで構想している(「・・・こうした条件のもとでこそ人民民主主義革命が、そしてそれに次いで社会主義革命が現実のものとなりうる」)。しかもどうやら、「非連続的」に考えているようだ。20世紀初頭のロシア革命論争のようでおもしろかった。

  3 小野一郎「ソ連の社会経済体制とその崩壊」

 ソ連体制をどうみるかについてはこの論文が、現代ロシアの論者の説を引きながら検討している。小野氏はソ連社会を「特異な過渡社会」であって、社会主義には至っていない、と規定する。なぜ「特異な」なものになってしまったのか。成立当初の歴史的条件からやむをえず打ち立てられた体制が、情勢の変化にもかかわらず惰性的に存続してしまったからである。それゆえ「ソ連の歴史は十月革命の自己否定に終わった」。
 ところで、小野氏が十月革命が世界に与えたインパクトに言及している点にはハッとさせられた。「ソ連社会に存在した社会主義的要素」は「決してとるに足らぬ程度のものではなかった」。今日の状況からつい忘れがちだが、確かに「現代」の始期は1917年だったのだ。
 また、小野氏は「ソ連型の社会主義」の時代が終わったにすぎないという立場であるから、「ソ連型」でない社会主義のための教訓をそこから導き出す。注目すべきは、「社会主義に固有な公正と平等の原理とともに、私的所有と市場機構の作用を欠いては経済の均衡と効率向上、そして社会の活性化の保持は期しがたい」との指摘である。「ソ連型」の代わりに「市場」という形容詞がつけられたといえよう。

  4 国富建治「ソ連邦の崩壊とトロツキズム」

 このいわば「市場社会主義」という代案を、トロツキーに依拠しつつ提出しているのが、この論文である。国富氏は「過渡期」という言葉にかかわって、「『過渡期』を『社会主義』それ自体ではない『社会主義への過渡期』として明確にすべきだ」と提案している。
 さらに、「過渡期」というと、「おたまじゃくしは卵とカエルの過渡期」というように、一方通行的にイメージするが、実はこの「機械的な理解」が「社会主義への過渡期」ソ連社会についての楽観的な見方を生んでしまったと反省する。むしろ、トロツキーも述べているように、「過渡期」には前進も後退もあるのであって、現在生じている事態は、「資本主義への後退」と理解すべきである、と。
 なぜ「後退」したのか。国富氏によれば、ソ連経済は「『市場の合理性』を無視し」たため、「価格計算を考慮の外においたこの『計画』という名の、無計画な指令経済は、経済の実態を当の官僚自身の目からも覆い隠し、システム総体の機能不全に導いたのである。」一方、トロツキーは「市場による『計画』の意識的調整と労働生産性の向上」を「過渡期経済の建設」の基礎においていたのだった。

  5 村岡到「『価値・価格論争』は何を意味していたのか」

 市場社会主義論に対して、この論文は〈生活カード制〉なる新たな制度を対置する。まず村岡氏はソ連での「価値・価格論争」を丹念に追っている。ソ連では1936年にスターリンが「社会主義社会」に到達したと宣言する。価値法則は「死滅」したことになる。
 ところが、1943年に突如として「経済学の教育に関する若干の問題」なる無署名論文が著され、「価値法則は社会主義において何らの役割も演じないという考えは、事物の本質においてマルクス経済学の全精神に矛盾している」と述べた。これが論争の発端となる。要するに、「過渡期」でしかなかった社会を「社会主義社会」だと宣言してしまったために、現実を説明できなくなり、苦しまぎれの辻つま合わせを行ったのであった。しかも、マルクスがこれについては不整合な表現しか残さなかったために、論争は複雑なものとなる。
 村岡氏は論争を通して明らかになったことをまとめている。革命後の経済の運営のためには「経済計算」が不可避であり、それゆえ「価格」表示が必要であること。さらにそのためには「価値法則」に依存すること。分配には「貨幣」が必要とされることなどが確認された、と。
 では、資本主義とどう違うのだろうか。「市場経済の揚棄を闘いとることこそが、過渡期社会の課題である」と村岡氏は述べる。そこで提起されるのが、「価格」ではなく、諸生産物を評価するための共通の単位としての〈協定評価〉であり、それが記載されている〈引換カード〉によって、〈引換場〉を介して消費物資やサービスを受け取るシステムである。これは、〈生得の権理〉として社会によって給付される(「労働に応じた分配」原則を超える)ので、〈生活カード〉といい換えられる。そして、「市場社会主義」論者にはこう語る。「需給関係の把握や情報の高度化機能を『市場』に期待しているのなら、私たちが提起する〈引換場〉で満足できるはずである。」
 貨幣は経済の血液と素朴に考えてきたわたしにとっては驚くべき提案であった。具体的なシミュレーションで実行可能性を確かめてみたくなる。
 もはや紙幅も尽きた。残念ながら、瀬戸岡紘論文「冷戦終結の世界史的意義とソ連崩壊」と岡田進論文「協同組合の思想と歴史的展開」の吟味は割愛せざるをえない。前者は冷戦終結によってはじめて資本のグローバルシステムが形成されたことを指摘し、その転換が「環境・文化・人間を保存しつつ」行われる正当性をもっているという。後者はマルクス、エンゲルス、さらにレーニンの協同組合論の検討から、「一国一工場」的な社会主義像に代わって、協同組合にもとづく社会主義像を見直すべきであり、「ポスト産業社会における『人間化』と『社会化』を先取り的に実現する経営形態として、注目に値する」と結んでいる。


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