8-1 事実と知識

明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川 幹人

 本項では,事実,信念,知識について考え,物事を究明することの基礎を理解する。

<1> 存在論と認識論

 現実に世界に存在する事柄を「事実」という。何が事実であり,何が事実でないか,すなわち,何が存在するのかとか,存在するとは何なのかとかを考える学問を「存在論」という。神や霊魂の存在,物や心の存在(8-3)などは哲学の古くからのテーマであった。一方,正当化された真なる信念を「知識」という。知識は認識するという営みの成果であり,何が認識可能かとか,認識するとはどういうことかとかを考える学問を「認識論」という。これも代表的な哲学のテーマである。
 信念は「信じていることの内容」であるから,誰でも自由に信念を抱くことができる。たとえば,「今,日本にはドラえもんがいる」と信じることができる。しかし,それが「知識」となるには,まず「真」でなければならない。「真である」とは,現に事実として「正しい」ということである。何が事実であるかが分かっていれば,事実とその信念を照らし合わせて正しさの判定ができる。「今,日本にドラえもんはいない」から「その信念は誤り」であるとか,漫画の世界も存在として認められれば「正しい」とかと判定がつく。ところが,無知な我々人間のように,何が事実であるか正確には分からない場合は,その判定はできない。そうした場合であっても,何らかの方法で「知識」であると認定(真であることの正当化)ができるとよい。そして,それこそが知識が「使える」ということでもある。
 たとえば,「家の裏庭に金塊が埋まっている」という信念がどんな場合に知識になるかを考えよう。単に「そんな気がした」という場合Aと,お母さんから「お爺ちゃんが裏庭に金塊を埋めていた」と聞かされた場合Bとを比べてみよう。場合Aは信念に至る根拠が薄弱で,正当化されていない。仮に裏庭を掘ってみたら事実金塊が埋まっていたとしても,それはたまたま偶然であり,「知識」としての役割を果たさないだろう。思い込みや思い違いの信念が偶然正しいこともあるのだから,正しいだけでは「知識」にはならない。一方,場合Bは,お母さんが信頼に足る人物であるなどの,他の知識があれば,「知識」に格上げしても良さそうである。
 このように,何が事実であるか(存在の全貌)が分からないまま,どうしたら知識を事実に近づけられるか,それが認識論の大きな課題であった。つまり,認識を通して世界の在り様(真理)を知ろうというのだ。では「真であることの正当化」を厳密に行なうにはどうしたらよいか。ひとつの方法は論理を使うことである。たとえば「裏庭に金塊は埋まっているかいないかのどちらかである」は,論理的に「正しい」(これさえも疑う立場もあるが)。明白に正しい観察から出発して,論理的な正しさを追っていくことで,知識の体系を作り,その体系に照らして「正しさ」を「証明」すればよい。こうした発想で認識論の厳密化に取組んだのが,論理実証主義者たちである。

<2> 論理実証主義の盛衰

 20世紀の初頭,数学は論理学と集合論に還元され,数学の基礎が磐石のものとなった。この数学の基礎のように,認識を(そして,あらゆる科学を)厳密化しようという運動が,1920年代にウィーンに起きた。これを論理実証主義という。活動のメンバーたちは論理実証主義者と呼ばれ,ナチスの迫害から逃れてアメリカに渡り,1960年頃までのアメリカの哲学の主流となる。
 論理実証主義における知識の基礎は,我々の感覚であり,それによって注意深くなされる観察結果である。それらから論理的に導かれるもののみが知識として正当化される。1928年,論理実証主義の先頭に立つカルナップは,あらゆる科学的営みは,この方法によって基礎づけられると豪語した。この動きはアメリカの心理学界に大きな影響を与え,ワトソンやスキナーによる行動主義心理学の台頭をもたらす。行動主義心理学によれば,心とは「観察可能な行動」に他ならず,人間よりもネズミの行動の研究で明らかになるものだった(8-3)。
 論理実証主義は現代までの科学の成立(8-2)に大きな貢献をするのだが,哲学の内部では次第に陰りを見せてくる。1931年にゲーデルは,(自然数以上の構造をもつ)論理体系は,原理的に不完全であることを証明した。つまり,真であるにもかかわらず,その論理体系からは証明できない事柄が必ず存在するのだ。これは,基礎的知識から論理で積み上げて「真理」に到達しようとする野望にとっては大きな打撃であった。またセラーズは1963年,その基礎的知識のほうを批判する。我々の感覚に,あたかも神から与えられたもののように,誤り得ない確実な内容が現われるとは,長年哲学者たちを惑わした「神話」であるというのだ。こうして論理実証のプロセスは,その到達点と出発点との両方の支えを失っていくのである。

<3> 知識の全体性・社会性

 クワインもまた,論理実証の出発点に疑いを呈した。彼は,ある知識の正しさはその知識単独では決定されず,他の知識に依存しているとも指摘した。お母さんから「お爺ちゃんが裏庭に金塊を埋めていた」と聞かされたのにもかかわらず,裏庭から金塊が出てこなかった場合に,どの知識が間違っていたかは容易には判定できない。お母さんの信頼性という知識が誤っていたのかもしれないし,金塊というのは実は鉄塊であってそれは地中で腐り去ったのかもしれないし,誰かが先に掘り出したのかもしれないし,他の知識が誤っていたのかもしれない。クワインは1961年,知識の真偽は他の知識群から文脈に応じて与えられるのだから,出発点としての正しい知識を単独で設定することは不可能であるとした。つまり知識は,その体系全体として成立する,全体的性格をもつことを示している。
 ウィトゲンシュタインは,当初論理実証主義を推進する論考を著したものの,1930年代後半から,一転して批判の側に回った。彼は,用語の意味を分析することにより,それはあらかじめ定義されるものではなく,使用を通じて文脈ごとに生み出されていくものだと指摘した。彼の1953年の探究によると,語の使用は「言語ゲーム」のようだという。つまり,語はゲームの駒のように,ルールに則ってプレーされるものであり,知識の正しさはルールに相対的に決まる。その意味で,言語ゲームが「事実」を構成しているのだ。ときにはルールを変更してプレーしてもよいともなれば,知識の体系は社会的に作られていることとなる(8-2)。
 知識に全体性・社会性が伴うとすると,先の「正当化された真なる信念」という知識の定義は,「その社会における他の知識全体に照らして合理的なプロセスで導かれる信念」などとなろう。仮に,夢の中でお爺ちゃんが出てきて「裏庭に埋めた金塊を掘り出してくれ」と言ったので,「家の裏庭に金塊が埋まっている」という信念を持ったとしよう。もしそれが,スピリチュアリズムを容認する社会での現象であれば,知識の社会性により,その信念は立派な「知識」になるのだ。ところが,我々の社会では「知識」とならない。「夢のお告げ」は,「科学」という知識の体系全体により,合理的なプロセスを経た信念とは見なされないのである。ゆえに,次に検討すべき事柄は「科学とは何か」である。

<X> 付記

 本項の内容はSSPにおけるエドワード・ケリー氏,スティーヴン・ブラウディ氏の講演をもとにしている。詳細部分は,筆者らが編集した『入門・マインドサイエンスの思想〜心の科学をめぐる現代哲学の論争』(新曜社)によっている。ケリー氏は,デューク大学工学部の教授であったが,最近退官して,妻が働くヴァージニア大学(8-1)に異動した。夫妻で共著の本を執筆中であるそうだ。


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