8-2 科学論

明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川 幹人

 本項では,物事を究明する典型的な方法である「科学」について,その原理と歴史的経緯とを概説する。

<1> 科学と非科学

 論理実証主義は,注意深い観察を積み上げ,そこから経験的に理論を形成していくという科学的方法論(実証主義)に基礎を与えた。実証主義における理論とは,観察される事象間の法則的関係を示した論理的構築物であり,そこから将来の予測される観察結果を導くものである。また,確証されたものが良い理論であり,観察が慎重になされれば,自ずとより確実な理論が導かれるとされた。
 実証主義として科学的方法論が確立したことにより,科学と非科学の間に境界設定がなされた。この方法論に則っている科学以外は「疑似科学」なのだ。20世紀始めには,とりわけこの境界設定に,大きな意味があった。当時,民衆を惑わす(とされた)オカルトや心霊研究を排除して,近代科学技術の発展に大きく貢献したのである。しかし,その副作用として,社会科学の大部分と人文科学のほとんど全部も擬似科学となってしまった。人間の社会的・芸術的営みの多くの部分は,客観的観察が極めて難しいのだ(8-3)。
 実証主義の科学的方法論とは,観察データの積重ねと,理論化のサイクルとなっている。観察データをもとにして理論を形成し,その理論によって次の観察データを予測し,実際に観察して理論を検証する。観察結果が理論と合わなければ理論を修正し,また観察による検証を繰返す,といったものである。
 この科学的方法論は,ポパーによる反証可能性の基準を加えて,今日までに至っている。反証可能性基準とは,どんな観察によって理論が反証されるかが明確な理論が,より良い理論であるという基準である。しかし次に示すように,こうした科学的方法論による科学の境界設定には根本的問題があることが,哲学者の間ではもはや明らかになっている。だが,一般の「科学者」の間では,その問題はあまり知られてはいない。

<2> 観察か理論か

 論理実証主義で観察による知識の正当化が壁に当たった(8-1)のに呼応して,知識の体系である「科学」を生み出す方法論としての実証主義も問題を露わにした。問題の指摘の先駆けは,1958年にハンソンが唱えた「観察の理論負荷性」である。これは,観察をするためには理論が必要であるという,考えてみれば当然の指摘であった。観察の対象となりうるものは無数にある。その中から何を観察するかは,それ以前の知識(あるいは理論)に強く依存している。また,認識の形式さえ,理論によるのだ。同じ観察をしても,異なる理論的背景を持てば,人それぞれに物事が違って見えるのも不思議ではない。
 では,誤った理論は,観察結果によって訂正されるだろうか。すでに確立された理論は通常,観察結果よりも強固である。奇妙な観察結果を得た研究者は,実験を失敗したと思って研究を発表しないか,発表しても無視されるのがオチである。(SSPでノーマン・ドン氏は,生理学者が脳波の実験報告論文にPSI予感現象が検出されているのにもかかわらず,何らかの実験上のミスだろうと自ら見なしてしまった例を紹介していた。)
 科学史家のトーマス・クーンは,1962年『科学革命の構造』(みすず書房)を著して,誤った理論に対抗できるのは新たな理論だけであると指摘した。現実の科学の営みの上では,反証データが提示されても,反証として働いていないのだ。この本ではさらに「パラダイム」という語が鍵の概念になっている。パラダイムとは科学研究上の枠組みであり,用語の使い方,観察・実験の行ない方,何が研究成果であるかなどを規定する。パラダイムの内部は,(ギルドのような)徒弟制の閉じた空間であり,門外漢には用語の意味さえ分からない。科学の場では,単調に知見が積み重なっていくのではない。旧来のパラダイムが変則的な観察結果のために不安定状態になった頃,次のパラダイムが現われ,ある時点で,革命のようにパラダイムが入れ替わるという。革命は,あたかも集団心理に導かれた群集のように進行し,革命後は革命前のパラダイムが遠い過去の出来事のように感じられる。

<3> 理論の相対性をめぐって

 クーンの唱えるパラダイムは,革命の前後で(真理に近づいたなどと)何らかの価値が向上するわけではない。ただ,無数のパラダイムの中からたまたま1つが選ばれただけである。すると理論は,科学コミュニティの社会的情勢によって恣意的に決まる相対的性格のものになる。ラカトシュは1970年,パラダイムに代わって,その相対的性格を和らげ,科学的進歩を部分的に議論可能とした「研究プログラム」という概念を提唱した。研究プログラムの内部はパラダイムのような閉鎖的空間であっても,観察結果を説明するのに新たな理論を次々と付け加えているのは退歩的プログラム,既存の理論体系で新たな観察結果を次々と予測しているのは進歩的プログラムであると,判定できると言う。ここには,ポパーの反証可能性の意義が盛り込まれている。すなわち,反証可能な理論は(ある観察結果は得られないはずだと見なすことで)観察結果を特定のものと予測するので,進歩的プログラムの理論となるからである。ただし,進歩的・退歩的と言っても,研究プログラムの間に価値的な優劣を見出すのではなく,科学の歴史に配して衰え行くものと栄えつつあるものを見分ける方法に過ぎない点には,留意が必要である。
 一方ファイヤーアーベントは1978年,クーンの相対性を極度に推し進め,科学的方法論は自由に決められるのだとした。科学上の成功を笠に着て権威化した体制に対しては,どんな方法論であっても反体制であるという理由だけで重んじられるべきであり,それによって改革の芽が育まれるのであると,過激な運動を展開した。またガーゲンは1985年,理論が社会的に形成される以上,その理論が描く「世界」も社会的に形成された結果なのだ,と「社会構成主義」を唱えた。
 クーン以降の科学論の展開は,理想的な科学とはどんなものかという絶対的な判断基準はなく,科学のあり方は,悪く言えば場当たり的に,良く言えば社会的に決まるものだということを示している。すなわち,「存在の実体に近づく」というような古い科学観は放棄され,何が事実であるかは理論によって決められるものとなったのだ。いわば科学が,認識論とともに存在論までをも決定してしまうということである。

<4> 科学の価値を守る

 理論が相対的であり,我々の認識に依存しているという主張は,客観的な世界の実在性を疑う反実在論を含んでいる。科学が単なる「決め事の体系」あるならば,科学の価値も見失われてしまう。だが現実の科学は,価値あるものとして機能しているように見える。このジレンマの中にあって,科学の価値を維持しようとする主義主張を次に挙げよう。
 まずは「科学的実在主義」である。これは,科学の理論はおおよそ「実在」に対応していると,頭から見なしてしまおうという考え方である。しかし理論が認識に依存している点は否定できないので,完全な形の実在主義は成立しない。いろいろな変形が施されるのであるが,代表的なところではパトナムが1981年,「心と世界は協力して心と世界を作り上げる」という内的実在主義を唱えた。
 次なるは「実用主義」である。我々の認識の水準で,実在を扱う上での効果的な実践を模索するのが科学であり,理論はその道具であるとされる。そこでは,世界を表現する知識よりも,実践的技能が,そして工学が重んじられるのだ。

<5> 超心理学と科学

 よく「超心理学は科学か」という問いが発せられるが,「科学とは何か」が不明瞭なので答えに窮してしまう。科学が方法論のことであれば,少なくとも実験超心理学に関しては,実証主義の科学的方法論(2-1)をとっている以上,「科学である」と言うべきだろう。ところが,科学が「通常科学」を指すのであれば,その反対である。超心理学の研究対象であるPSIは,明らかに「通常科学」のパラダイムの範疇に入っておらず,その科学的知識体系と融和できる見通しも十分にない。超心理学の科学化には,クーンが言うような,ある種の「革命」が必要ということになる。
 しからば,革命は起きるのだろうか。メタ分析によって変則的なデータが積重ねられているので,あとは第5章に示したような理論が力を得るのを待てば良い,という気もしなくはない。一般大衆はPSIを許容する傾向が高いので,科学が社会的なものならば,突如として革命が起きる可能性も否定できない。
 しかし,科学の社会性を考慮するならばなおさら,超心理学の社会的価値を再考せねばならない。確かに超心理学には社会的な応用上の価値がある(1-1)が,超心理学を受け入れることで失われる価値にも目を向けねばならない。歴史上,超心理学の研究対象を含めた「怪しい」領域を非科学的と排斥することによって,「現代科学技術」の発展が促進されてきた経緯がある。となると,超心理学の科学化には少なくとも,科学と非科学との境界線の引き直し作業が伴われるべきである。
 実は,そうした境界の再設定は,超心理学のみならず,心に関する科学的探究が一様に抱えている課題なのである。その理解には,「心的世界の取扱い」について考える必要がある。

<X> 付記

 本項の内容はSSPにおけるスティーヴン・ブラウディ氏,サイ・マウスコプフ氏の講演をもとにしている。詳細部分は,筆者らが編集した『入門・マインドサイエンスの思想〜心の科学をめぐる現代哲学の論争』(新曜社)によっている。


超心理学講座のトップへ戻る] [用語解説を見る] [次に読み進む