8-3 心的世界

明治大学情報コミュニケーション学部教授
メタ超心理学研究室 石川 幹人

 以下では,心の世界の位置づけと,その究明について議論し,超心理学との関係を捉える。

<1> 機械の上の心

 コンピュータが高性能化してきた現代では,人間のように知的にふるまう機械(人工知能)が生産されるのもそう遠くない将来だと感じられる。論理実証主義の企てがうまくいっていたら(8-1),なおさらだろう。なにしろ,知識の格納・蓄積や,それを使って論理的な演繹をする作業は,コンピュータにとっては得意分野だからである。
 しかし,人間には,知識という形では明言できない知が他にもあり,むしろ日常生活ではそちらの知のほうが重要である。第1に,自転車に乗るなどの技能に代表されるような,身体知やノウハウの類がある。第2に,言葉が指し示すものを状況・文脈に応じて知る,意味の知,あるいは分類の知がある。第3に,痛みや赤みなどの感覚(8-4),怒りや悲しみなどの感情にまつわる体験の知がある。どれもコンピュータ上に言語で記述するには限界がある一方,相手が人間ならば,それを説明することで共感を通じた理解が得られそうである。
 こうした問題で,人工知能の実現は,少なくともまだ当分ありそうにないが,人工知能を考えることは,心にまつわる哲学的問題を鮮鋭化する。すなわち,人間には機械上にはとても実現できない特有の心的世界があるのか,それとも我々が心と思うものは機械上にも実現可能な物理的状態に過ぎないのか,である。前者の考え方を「心身二元論」,後者の考え方を「唯物論(物質一元論)」と言う。

<2> 心身二元論

 心身二元論では,心的世界と物的世界とを,それぞれ独立した世界として認める。身体(および脳)は物理的な法則に従って動作し,そこに「心」という独自の存在が「宿る」のである。心身二元論は,宗教的教義によく現われ,また我々の直観ともよく合うので,根強く信奉されている。しかし,「心」と「身体」を別個の存在とすると,両者はどのように関わり得るのかという,深刻な「心身問題」が発生する。意志という心的世界の働きはどのように身体を動かすのか,薬物を服用するとどうして気持ちという心的世界に影響するのか,といった具合である。
 また,心が独自のものであるとすると,何故その相手として脳が選ばれるのか,機械に心が宿っても,石に心が宿ってもいいではないか(これを汎心論という),ときには相手がない浮遊する「霊魂」であってもよいではないか,となる。さらには,「私の心」と「あなたの心」はどう違うのか,心の同一性と異質性はどのように成立するのか,宿る脳によって心が変わってしまうなら,どこまでが脳の機能でどこからが心なのか,議論百出である。
 心的世界は存在するが,認識の及ばないものであるという考え方もある。コリン・マッギン著『意識の<神秘>は解明されるか』(青土社,筆者らによる邦訳)を参照されたい。物的世界は存在せず,心的世界のみが存在するとして,問題を回避する「唯心論」という立場もある。「観念論」も同様な立場だが,物的世界は(存在しても)認識できないという点に重きを置いている。

<3> 唯物論

 すべての存在世界は物的世界のみである,という考え方が唯物論であり,現代の科学が採用している世界観である。しかし,そもそも科学は,物的世界の究明のために発達してきたものであり,心的世界も同様に究明しようというのは,ある種の越権行為とも言える。
 唯物論では,結局のところ,心的世界は脳から形成される幻想であると見なされる。理論的には,いかに合理的に脳から心的世界とされるものが生まれるかを説明すればよいのだが,それはなかなかの難問である。また仮にそれが成功したとすると,我々は皆,単なる機械であり,自由意志も欠けた取るに足りないものとなりかねない。
 心的世界を物的に説明する最初の試みは行動主義である。行動主義者は自身の経験する心的世界は脇に置き,心的なものは外部から観察可能な行動のみであるとした。こうした行動主義は行き過ぎであり,我々の心的世界に対する直感を何とか救おうというのが,その後の動きである。
 「心脳同一説」では,心的状態は,生理学的な脳状態そのものだとされた。「痛み」とは,これこれの神経細胞の興奮に他ならないというのだ。我々が感じる痛みの感覚が,脳細胞の電気的変化とイコールだと言われても直感には合わない。続いて「機能主義」では,コンピュータのアナロジーをもとに,心的なものは機能であり,それは脳で実現されても,電気回路で実現されても構わないと見なされた。巧妙なところでは,心的なものは物的なものに「付随」するとして心的世界の居場所を確保する「非法則的一元論」がある。
 唯物論の諸説は,一般に現在の科学との折合いがいいが,科学的方法論でそれらが正当化できる訳ではない。というのは,心的世界は研究者自身は経験できるものの,研究対象としての人間やロボット機械に心的世界(の幻想)があるかどうかは確信できない。たとえ内観報告してもらったとしても,それは単にそう報告するように(プログラミングなどで)強制されているのと,区別がつかない。
 こうした事柄は,「心の哲学」として哲学分野で議論されている。

<4> 超心理学と心的世界

 超心理学では普通,PSIは人間(生物)の能力であり,心の主体的機能として発揮されると考えられている。このモデルに従えば,PSIの発揮主体として特有の心的世界を認めるのが,超心理学者にとっては素直な発想だろう。心身二元論を顕わに主張する超心理学者は数多い。ベロフ,ホノートン,タート,スティーヴンソン,それにノーベル生理学賞受賞者のエックルス(『自己はどのように脳をコントロールするか』シュプリンガー)などがそうである。また,魂の存在を認める心霊主義者(1-2)ならば,当然心的世界の存在は前提とされるだろう。
 超心理学者にとって,心身二元論を採用する利点はまだ挙げられる。それは心身問題とPSIの働きを同一視できるからである。心が身体と関わる不明のメカニズムをPSIであるとし,両者を同一の問題としてしまうのだ。心が脳を通じて手足を動かすのは広義のPKであり,心が脳を通じて外界を知るのは広義のESPであるとすれば,一緒に解決できる可能性が生まれるのである。
 しかし,だからといってPSIが解明されやすくなった訳ではないし,心身二元論が有力になった訳でもない。物理学の拡張でPSIを説明しようとする超心理学者の中には,唯物論の立場を崩さない者も見受けられる。ただ,超心理学者の主張の理解には,その背景となる世界観の理解が必要であることだけは,間違いがない。

<X> 付記

 本項の内容はSSPにおけるスティーヴン・ブラウディ氏,エドワード・ケリー氏の講演をもとにしている。詳細部分は,筆者らが編集した『入門・マインドサイエンスの思想〜心の科学をめぐる現代哲学の論争』(新曜社)によっている。
ブラウディスティーヴン・ブラウディ氏


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