『月報・ 司法書士』 371号6-9頁(2003年1月号)

 


法の解釈適 用と言葉

東京大学大学院法学政治学研究科教授
太 田 勝 造

日本人の契約観を法社会学的な調査で明らかにしようと,加藤雅信名古屋大 学法学部教授を中心とし,筆者もメンバーである「法意識国際比較研究会」は, 22の国や地域で法学部生と経営学・商学部生を対象として質問票調査を行い, 法学部生1万件,経営学・商学部生7千件の合計1万7千件ほどのデータを集 めた.この調査の日本部分の中間報告は『ジュリスト』1096 号(1996年)に 「特集・日本人の契約観と法意識」として掲載されている.

この契約意識調査の結果には,法と言語に関して興味深い知見も得られてい るように思われる.すなわち,法学部生と経営学・商学部生との間の契約遵守 意識の差は,統計的に有意に大きいことが分かった46頁).すると,法律を 学んだ法学部生は契約を遵守しようとし,法律を学んでいない経営学・商学部 生は契約を遵守しようとする程度が低い,と読者は期待されるであろう.とこ ろが,調査データの分析結果によると,法学部生よりも経営学・商学部生の方 が,一般に契約を遵守しようとする傾向が強かったのである.しかも,法学部 生の内部で分析すると,法律学の科目を学べば学ぶほど,契約遵守度が低くな るのである.法学教育とは,契約を遵守するようにさせるものではなく,契約 の文言を法解釈の手法によって歪曲させ自分に都合のよいように操作する仕方 をマスターさせているということなのであろうか.

これに対し,法律学の教科書などでは,法律学は言葉に厳密で,論理的な学 問であるとされる.言葉に厳密であることの例として,「その他」と「その他 の」の使い分けなどがあげられることが多い.「その他の」というのは,その 前に記された語句が後ろに記された語句の一部に含まれる場合であり (例:著 しく危険,不快,不健康又は困難な勤務その他の著しく特殊な勤務) ,「その 他」というのは,その前後に単に並列的に語句が並べられる場合である (例: 特殊勤務手当の種類,支給される職員の範囲,支給額その他特殊勤務手当の支 給に関し必要な事項).法律学が言葉に厳密であることの別の例としては, 「及び」と「並びに」の使い分けや「又は」と「若しくは」の使い分けがある (詳細は,浅野一郎(編)『法制執務辞典』ぎょうせい,1978年など参照)

また,法律学が論理的な学問であるとされることの例としては,法的推論が 論理的な三段論法として説明されることが挙げられる.たとえば,法適用は

「抽象的法規を大前提とし,真実と確定された具体的事実関係を小前提とする 三段論法の所産である」(レオ・ローゼンベルク(倉田卓治訳)『証明責任論』 判例タイムズ社,197212頁) とされている.著名な民法の教科書においても, 優れた法の解釈の要素の第一として, 「法の解釈には一貫性が要求される.… 一貫性とは,既に蓄積されている確立した法原理との整合性と言い換える」こ とができると指摘されている(内田貴『民法T:総則・物権総論』[第二版] 補訂版,東京大学出版会,200010頁).

このような,言葉に「厳密」で「論理的」な法律学を学べば学ぶほど,契約 の文言を守らなくなるというのはパラドクシカルではなかろうか.ところで, 一般市民の感覚ないし常識としては,法律家は詭弁を弄して白を黒と言いくる める技に秀でた人種である.たとえば,「弁護士稼業の第一原理」という法律 家を揶揄した作者不明の文章で次のように記されている.

「法的に不利なときは,事実で攻めよ.
 事実が不利なときは,法解釈で攻めよ.
 法も事実も不利なときは,憲法論を展開せよ」
前記の契約意識の法社会学的調査は,このような市民感覚の正しさを実証して いるようでもある.

では,そもそも,言葉を用いてなされる知的営為である法解釈とは,いかな るものなのであろうか.法社会学でこの問題に取り組んだ研究として穂積忠夫 弁護士の研究が有名である(「法律行為の『解釈』の構造と機能」川島武宜 (編)『経験法学の研究』岩波書店,1966212頁以下).穂積弁護士は,条 文や契約条項に対して立法者や契約作成者,意思表示者などが,その意味とし て与えた内容を確定する作業や,当該文言が一般の社会でどのような意味とし て理解されるかを確定する作業を「意味の発見」と呼ぶ.これに対し,条文や 契約条項の意味としてどのような内容を与えるべきかという法的価値判断を行っ て,当該文言にその望ましい意味を与える作業を「意味の持込」と呼ぶ.この ような区別に基づけば,経営学・商学部生は契約に対して「意味の発見」に努 め,発見された内容を守ろうという態度を有していることになる.これに対し, 法学部生は,契約に対して「意味の持込」に努め,自ら持ち込んだ,したがっ て一般市民から見れば文言と矛盾するような内容に従おうという態度を有して いることになる.

いうまでもなく,裁判官が法の解釈適用を行うときにも,「意味の発見」だ けを行っているわけではない.むしろ,正しい法を解釈によって見つけ出すと いう「意味の発見」の名の下に,望ましい法解釈を創造するという「意味の持 込」を行っていることが多い.裁判官は,判決を法規範から論理的に導き出さ れた結論であると構成し正当化する義務を負うが,穂積弁護士によれば,裁判 官は論理的結論に盲従したりはしない.法規範が,

「Aという要件事実があるときはYという法律効果が生じる」 という条件文であるとする.このとき,裁判官はYという結論を採用した場合 には,認定した事実αがAに等しいないし包含されるということを説明しなけ ればならない.ところが事実認定の結果はαとは異なるβであるとする.それ にもかかわらず, @裁判官のパ−スナリティ
A裁判官の思想や価値体系
B裁判官を取り巻く社会環境
C裁判官集団に共有されるものの考え方
D当事者や弁護士との相互作用
その他の要因によって,担当裁判官はYという結論を採るべきだと考えたとす る.穂積弁護士によれば次の3つ方法のどれかが採られる.すなわち (1)裁判官は法規範の意味を変える. これは法の解釈の名の下に法の修正や法の創造を行っていることになる. (2)裁判官は認定事実を変える. これは,事実を擬制したり,概念を類推したり,比喩を用いたりして,βであ る事実関係をαと看做していることになる. (3)裁判官は,法規範の意味と事実認定の両方を変える. このようにして,裁判官は自ら望む判決の結論を正当化する判決理由を作り上 げるのである.

では,言葉に厳密で論理的に見える法解釈の方法が,このような形で用いら れているということは,法律家の法解釈が,実は一般市民を騙す法専門家の詐 術に過ぎないということなのであろうか.それとも,社会経済の実情にあわな い法律や,時代遅れとなってしまった法律を,その内容のままに適用してしま うともたらされてしまう非合理や社会的損失を回避するために利用される言葉 の上のテクニックが法解釈なのであろうか.そして,当事者の本当の意思に合 致しない契約内容や,社会的正義に反する当事者の合意をそのまま適用するこ となく,当事者の本当の意図や社会正義に合致するように契約内容を書き換え る言葉の上のテクニックが契約の解釈なのであろうか.そもそも,複雑な事実 関係や複雑な社会関係を記述し制禦する上で言葉というものは本質的な欠陥を 内在させているのであるから,法や契約の解釈とは,この言葉に内在する欠陥 を,事後的に補完するための言葉の上のテクニックなのであろうか.

法社会学的に見ると,これらの可能性の全てが当てはまるようである.

法解釈が詭弁的な詐術であるという主張として,ヘンリー・ソローは,次の ように述べている.

「法律家の言う真実とは『本当の真実』ではない.単なる無矛盾性や便宜でし かない.法律家の真実はいつも自己目的的なものであり,正義の名による悪を 暴いたりしようとするものではない」 また,ジョン・ゲイも次のように法律家を揶揄している. 「法律家にとって,都合のよいように言葉の意味や内容を歪曲することが,朝 めし前だということは周知のことだ.法的スキルを駆使すれば,言葉は融通無 碍となり,どんな依頼人にとっても有利な法解釈を,自由自在に導けるのだ.」

これらに対し,法解釈が社会正義の実現と当事者自治の尊重のための方法論 であるという主張もないわけではない.有名なフェリックス・フランクファー タ判事は次のように主張する.

「法律の条文として書かれたものだけを『法』と扱うような法解釈方法論は, あまりにも視野狭窄的でありすぎる.」(Nashvill, Chattanooga and St. Louis Railway v. Browning, 310 U.S. 362, 369 (1940) 立法事実論とブランダイス・ブリーフで有名なブランダイス判事も次のように 指摘する. 「裁判事件について判断する場合には,言葉の上の論理よりも,現実社会の論 理のほうに従わなければならない.」(Di Santo v. Pennsylvania, 273 U.S. 34, 47 (1927) また,不法行為におけるハンド・ルールなどで著名なラーニド・ハンド判事も, 次のように述べている. 「条文や契約条項を文言どおりに読むことほど,混乱をもたらす確実な方法は ないであろう.」Guiseppi v. Walling, 324 U.S. 244, (1944)

言葉の欠陥については,ウィリアム・ジョンソン判事がGibbons v. Ogden事 件の補足意見において次のように指摘している.

「世の中にある疑問や問題の半分は,言葉に内在する欠陥によって惹起されて いる」(22 U.S. (9 Wheat.) 1, 232 (1824))

また,裁判官の主観的意図としては社会正義や正しい契約内容の実現であっ たとしても,比喩等の言葉の上のテクニックの使い方を誤ればうまく行かなく なり得る.たとえば,著名なベンジャミン・カードウゾ判事はBerkey v. Third Avenue Railway事件において次のように比喩の多用を戒め ている.

「法における比喩の使用は謙抑的でなければならない.比喩は,もともとにお いては思考を柔軟にして正しい法的判断を可能とするものとして使われ始める のであるが,しばしば,結果としてはやり過ぎて却って分析的思考を阻害して しまう.」

このように見てくると,少なくとも,法と言葉の関係は一筋縄では行かない ことが明白となってくる.言葉の上のテクニックとしての法解釈は,社会的正 義の実現のために使うことも,私利私欲のために使うことも可能ないわば「両 刃の剣」である.しかも,さらに困ったことに,主観的には正義を求めての法 解釈が,却って社会的不正義をもたらしたりもしうるのである.法律専門家の 一員としての司法書士は,法と言葉の間のこのような複雑で困難な関係を肝に 銘じておかなければならないであろう.




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