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理性と感情

理性と感情
ものを読んでいて、「理性には理性の、心には心の論理がある」という言葉に出あった。
そのとおりだと思った。
しかし同じように、「理性には理性の、心には心の感情がある」ということも出来るのではないかと思う。
常識では、理性と感情は対立するものと思われている。また、常識では、自然 nature に生きるということ、自分の本性 nature に忠実に生きることは、心の向くまま気の向くまま、感情にしたがって行動することと考えられがちだ。
しかし、例えば、ロ−マの皇帝であり、ストアの哲人でもあったマルクス・アウレリウスの『自省録』(岩波文庫)を読むと、「自然にしたがって生きる」ということが、「理性にしたがって生きる」と同義に用いられている。ここでは、人間の自然は理性であると考えられているのだ。自然な考え方と思われるものも、時代と国が異なると、必ずしも自然であるとはいえないことが、自然という言葉自身によっても明らかにされるわけだ。
しかし、人間の本性を理性と見なすか、感情と見なすかは大きな違いであるにしても、理性と感情を対立的なものと見なす点では両者は同じだ。理性主義者は時として感情を動物的なものであるとして「嫌悪」する。しかしこの「嫌悪」は感情だ。感情主義者は理性を非人間的な鉄鎖だとしてこれからの解放を「諭す」。これは理性だ。19世紀の哲学者フォイエルバッハは感性の哲学を説いたが、その彼の哲学は理性がなくては説くことも読解することもできない。
嫌悪の感情に駆られる理性と、論理的に諭そうとする感情。
恋の激情に我を忘れても、いやその時こそ、人は恋の手練手管・奸智謀略に理性をフル動員する。
理性的であろうとするとき、時には理性が激しい欲求の対象とされ、時には静かな喜びが随伴していたりする。いずれの場合でも、感情という名の音楽は常に流れているのである。
思うに同じ全体、不可分のある流れを、分析的な知性=分析好きの感情が、丁度光をプリズムで分解するように、理性と感情に分解してみたがるだけなのではないか。その流れの全体を、何と呼べばよいのか。
ただし、感情が暴発してしまうときもある。つまり、いわゆる切れた状態の時もある。感情のこのようなメルトダウン=暴走の状況もあることを、勘定に入れておく必要がある。我を見失った状態と云うものがある。理性とは我を見ているもう一人の我のことであるとすれば、このときは理性喪失の状態と云えるだろう。
しかし石の場合は落下が石の理性、潜在的理性、石の論理であるとすれば、制御の効かない感情と、それにつき動かされる衝動的意志にも、落下の理性のようなものが働いているのではないか。落下理性...
あるいは、例えば落花生は、落花した後、茎を地に延ばして潜り込み、地中に豆を育てる。そうしたほうがよいという判断のものでしているわけではないが、これは理に適っている。この理に適っているということは、理性的ということを意味するのではないか。理性にも主観的なものと客観的なものがあるということではないか。

3月29日

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