あらかじめお読みください

1999年7月24日  生方卓

  私がパソコンを使い始めたのは1995年の春。以前から環境問題に関する新聞記事を切り抜いてスクラップしていたのですが、練習の意味をも込めて、これらの記事の見出しと、必要に応じて内容の要約、時には短いコメント、興がのれば短歌まがいの戯れ歌をつけてパソコンに打ち込み始めました。自宅でとっている新聞は朝日新聞と毎日新聞ですが、二紙の記事を切り抜いてスクラップしてパソコンに打ち込むのにはかなりな時間をとられます。他の新聞や雑誌も、記事が目に入ったときに限って打ち込んでいますが、その量はそれほど多くありません。二紙が中心になったのは、たまたま購読していたのが朝日と毎日だったことと、全紙をを対象にする時間の余裕はないこと以外に理由はありません。記事でAとあるのは朝日新聞、Mは毎日新聞、Yは読売新聞、Tは東京新聞の略です。地方紙にまでは眼が届きませんが、日刊工業新聞社で出している月刊誌「グリーンジャーナル」には、地方紙の記事見出しが収録されています。併せて参照ください。
  作成したものを、これまで、ゼミや講義で資料として配付してきましたが、この度、役に立ててくれる人がいればと思い、ゼミのホームページが立ち上がるのを機会に、公開することにしました。有効に利用していただければ幸いです。環境問題と言っても大変広いです。私は環境の概念を自然環境、社会環境、歴史環境、の三つの観点からとらえるべきだと考えています。たとえば、子どもにとっての重要な環境は、見上げる空、呼吸する空気、飲む水、走り回る大地、口にする食物といった、自然環境ばかりではありません。しかもこれらの自然環境は、社会と歴史に規定されてもいます。
  孟母三遷の故事は、評価はともあれ、子どもにとっての地域の社会環境を問題にしています。家庭という社会、家屋の構造、学校という社会も子どもにとって決定的な環境です。恋愛関係も個人にとっては重要で決定的な環境です。また、同じ日本の社会に生まれても、戦前に生まれるのと戦後に生まれるのでは、歴史環境が決定的に違います。同じ戦後でも、世代が異なればしばしば言葉も心も通じません。我々は多かれ少なかれ時代の子であり、時代を超え出ることは自分の皮膚を抜け出るのと同じようにほとんど不可能のように思えるほどです。ベトナム戦争以前には、地球人はダイオキシンとは無縁に生きていました。広島長崎以前には、人は核による汚染に悩まされることはなかったのです。自由な時間、自由な空間、自由な仲間、この三つの「間」は、人「間」にとって、とりわけ子どもにとって必要な間境、いや環境です。この「間」こそ自由な活動が行われる前提なのだと思います。しかし、これを欠いた間抜けな環境を作っている仕組みもまた環境です。これは魔の環境です。
  時間とは、観点を変えれば「時代」であり、「歴史」です。空間は、「自然」と言い換えることができます。仲間とは「社会」に他なりません。我々の社会概念は、反対に仲間の崩壊を、人間同士の敵対を意味することが多いのですが、いじめも学級崩壊も、本当に鏡に映った大人の造っている社会そのものです。ただ、この三つの環境の区別はあくまで概念的なものであって、環境は現実においては三つの領域の総和としてあります。一本の楡の木は私を囲む自然でも、社会でも、歴史でもありえます。
  とはいえ、ここで取り上げられているのは、狭義における環境、すなわち自然環境だけです。コソボもガイドラインもバブル崩壊も学級崩壊もエイズも、サッチー問題も雨の日に傘がないことも、我々を取り巻く環境には違いないのですが、ここで、新聞の政治、経済、家庭、教育、芸能スポーツ、文化、社会の全事象を取り上げるわけにはまいりません。だから、たとえば学校が取り上げられるのは、そこにおける人と人との関係(生徒と生徒、生徒と教員、学校と文部省等)に関する出来事ではなくて、校舎建築や環境教育に関する記事になるでしょう。そのことをあらかじめお断りしておきたいと思います。
  総じて言えば、環境政策、環境教育、エネルギー・資源問題、環境汚染問題、環境共生建築、環境倫理、地域環境と地球環境問題、化学物質問題、環境ビジネス、環境管理といった分野の記事が抜粋の対象とされています。今の文明の仕組みを持続してゆけば、近い将来、人類は、化石燃料の枯渇、更には埋蔵燃料の枯渇という事態に対応した生活を送ることを余儀なくされます。たとえば、飛行機のない文明の様相は一変するでしょう。しかし石油無しに自動車なら走れても、飛行機は飛べません。そんな時代が間近に迫ったときに何が起きるか。それに備えて個人や国や科学や教育は何をなすべきなのか。そんな問題を考えるきっかけにしていただければ幸いです。

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