◎上田万年 年譜
1867(慶応3) 1. 7名古屋藩士上田虎之丞・いね子の長男として、江戸大久
保の名古屋藩下屋敷にて出生
1870(明治3) 父死去
1880( 13) *斎藤緑雨(12歳)、伊勢国より上京、同じ本所緑町三丁
目藤堂邸に住み、相知る仲となる。《文献m》
1885( 18) 帝国大学文学部和漢文学科に入学。チャンブレンに師事す
る。
*当時の教授、小中村清矩・久米幹文・物集高見、大沢清臣、
古典講習科に、黒川真頼(のち教授)・木村正辞・飯田武
郷・本居豊頴・佐佐木弘綱・小杉榲邨等。《文献k》
12. 帝国大学文科大学と改称。
1888( 21) 7. 帝国大学文科大学和文学科卒業。大学院に入学。
8. 文科大学英語学授業嘱託。[21歳]
1890( 23) 9. ドイツ留学(3年)を命ぜられる。(帝国大学総長加藤弘之、
文科大学学長外山正一)
1892( 25) 8. さらにフランス留学(6カ月)を命ぜられる。
1894( 27) 6. 帰国。
7. 帝国大学教授(高等官六等)に任ぜられる(博言学講座担
任)[27歳]、学生に、保科孝一
11.11 *新村出(一高2年)、上田の講演「言語学者としての新
井白石」を、神田一ツ橋の大学講堂にて聴講。感激して、
博言学を志望する。《文献g》
1895( 28) 6. 『国語のため』(富山房)出版
12. 村上つる子と結婚。
1896( 29) 2. *新村出、文科大学入学、上田の講筵に連なる。《文献g》
7. 図書編纂審査委員。
1897( 30) 6. 帝国大学、東京帝国大学と改称。
9. 尋常中学校教科細目調査委員(翌年4月まで)。
*秋、神宮皇学館にて講演。安藤正次、学生として聴講。
講演後、松坂にゆき、本居春庭伝の資料調査。安藤も、
松坂まで赴き上田の話を聴く。《文献d》
1898( 31) 7. *国語改良会を設ける。《文献f》
9. 東京帝国大学文官普通試験委員。
11. 文部省専門学務局長兼文部省参与官(高等官二等)を任
ぜられ、東京帝国大学文科大学教授を兼任(芳賀矢一と
博言学講座分担、99年10月まで)
*沢柳政太郎、文部省普通学務局長に就任。上田と相助
けて国語教育の改善に着手。《文献e》
12. 東京帝国大学文科大学に国語研究室が創設され、主任と
なる。[31歳]
1899( 32) 3. 文学博士(総長推薦)。
10. 国語学国文学国史第三講座分担。
1900( 33) 3. 博言学講座、言語学講座と改称。
4. 国語調査委員(委員長・前島密、委員に那珂通世、大槻文
彦、徳富猪一郎など)
東京外国語学校長事務取扱(11月まで)。
6. *芳賀矢一、欧州留学の送別会を、箱根塔の沢の環翠楼
で開く。上田ビールを飲す。高津鍬三郎・松井簡治・和田英
松・今泉定助ら十三名出席。《文献h》
8. 小学校令発布。
1901( 34) 6. 文科大学教授本官、文部省専門学務局長兼任(翌年3月ま
で)。再度、言語学講座担任。
1902( 35) 3. 国語調査委員官制発布。
4. 国語調査委員および同委員会主事(委員長・加藤弘之、委
員に嘉納治五郎、井上哲次郎、沢柳政太郎、三上参次、徳
富猪一郎、木村正辞、大槻文彦、前島密など)、さらに、大
槻文彦とともに主査委員となる(補助委員・林泰輔、保科孝
一、岡田正美、新村出、大矢透)。
*この年、樋口慶千代、上田を知る。《文献f》
1903( 36) 6. 『国語のため 第二』(富山房)出版。
*橋本進吉、言語学科に入学、講筵に列す。《文献l》
1904( 37) 4.16*同月13日に死去した、斎藤緑雨の納骨式に参列。於、本
郷東片町大円寺。坪内逍遥、幸田露伴、与謝野寛、馬場
孤蝶らが集まる。《文献m》
6. 教科書調査委員。
10. 『舞の本』(金港堂)出版。
1905( 38) 7. 言語学講座担任を免ぜられ(後任は、藤岡勝二)、国語学
国文学第一講座担任。
1906( 39) *仮名遣い改定案可決。《文献e》
1907( 40) 4. 東京帝国大学評議員。
*秋、東条操、東京帝国大学入学して、上田の講筵に列
す。《文献i》
1908( 41) 3. 帝国学士院会員。
5. 臨時仮名遣調査委員会委員。*森鴎外反対意見、芳賀矢
一賛成意見を述べる。《文献e》
1910( 43) *橋本進吉、助手となる(1927まで)。先任助手に、栄田
猛猪。《文献l》
*冬、チャンブレン帰国の際、王堂文庫の日本書すべてを
受領する。そのうち、東京大学国語研究室に置いたもの
は、震災で消失。《文献j》
1912( 45) 3. 東京帝国大学文科大学学長。[45歳]
*南北朝正閨問題について、南北朝並立説の田中義成
の講義名を「吉野朝史」と改めさせる。《文献n》
1913(大正2) 6. 国語調査委員会廃止。
1914( 3) 7. 欧米各国への出張。
1915( 4) 2. 帰国。
5. 国語学国文学第一講座担任。
1916( 5) 3. 『古本節用集の研究』(橋本進吉と共著)出版。
10. 中国出張(12月帰国)。
1917( 6) 東洋文庫創設に尽力。[50歳]
1919( 8) 4. 東京帝国大学文科大学、文学部と改称。
*スペイン風邪にかかり1月寝込む。《文献b》
6. 神宮皇学館長に任ぜられる(25年まで)。
12. 『大日本国語辞典』(松井簡治と共著)完成。
1921( 10) 3. 文学部長解職。
6. *臨時国語調査会制発布(会長、森鴎外)、上田も委員
となる。《文献e》
1923( 12) 2. 欧州出張(9月帰国)。
9. *関東大震災。この日帰朝、品川沖から望見す。《文献c》
1924( 13) 1. 御講書始、進講。
11. 財団法人東洋文庫設立、理事就任。
1925( 15)10. 日本音声学協会創立、初代会長。
12. 学士院選出貴族院議員となる。
1926(昭和2) 3. 東京帝国大学教授停年、國學院大学長に就任(28年1月
まで)。日本大学に出講。[60歳]
7. 東京帝国大学名誉教授となる。
1930( 5) 5. 『近松語彙』(樋口慶千代と共著、富山房)出版。
1931( 6) *白内障手術のため1月入院。《文献b》
1934( 9) 11. 2 *正倉院御物を見にゆく(8日帰郷)《文献b》。
11.11 *軽微な脳溢血にかかる。《文献b》
1935( 10) 7. *初旬、高野辰之、上田邸を訪ねる。《文献c》
*鎌倉大仏裏、坂本嘉治馬氏別棟に避暑。《文献b》
10. 6 *入沢博士に直腸癌の診断を受ける(家族)。《文献
b》
10.16 *塩田博士に、末期癌を宣告される(家族)。《文献b》
1937( 12)10.26死去、享年71歳。
.27*朝、安田周三郎、デスマスクを取る。午後5時、納棺
式。《文献a》
.29*午後2時、天皇より幣帛、祭資下賜。通夜。《文献a》
.30*午後0時30分より、告別式。司会・新村出、弔辞・加藤
正治(帝国学士院)、長与又郎(東京帝国大学総長)、
橋本進吉(門下生代表)。《文献a》
12. 『国語と国文学』上田万年博士追悼録
*「国語は帝室の藩塀なり。国語は国民の慈母なり」(『国語のため』第一、
1985の扉の言葉《文献e》)
*「せつかく楽しいこの世の中を、固い理屈で無が無に刻む。野暮ぢや先生
ちよとふりむいて、こちらの花をも見やしやんせ」(上田がしばしば謡ったと
伝えられる都都逸《文献e・g》)
*「先生は恐くはゲーテの愛読者でもあられたにちがひなかつた」《文献g》
*「[『大日本国語辞典』について]編輯の内容に関しては、一言も口を挿ま
ず、殆ど一頁の検閲もしないで、全然自分に一任されたことは、自分とし
て感謝の念に堪へないのである」《文献h》
*「助手時代[大正2年ごろ]に私は時々用件をもつて学長室の戸をノツクし
た。中から「ヘライン」といふ高い声が響く。」《文献i》
【参考文献】
原態:「上田万年先生略年譜」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
文献
a 岩淵悦太郎「御葬儀の記」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
b 上田 寿「父を憶ひて」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
c 高野 辰之「噫 上田万年先生」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
d 安藤 正次「先師の追憶」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
e 保科 孝一「故上田先生を語る」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
f 樋口慶千代「上田万年先生を懐ぶ」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
g 新村 出「上田先生をしのぶ」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
h 松井 簡治「故上田万年博士に関する思出のことども」(『国語と国文学』
14−12、1937.12)
i 東条 操「恩師上田先生と私」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
j 佐佐木信綱「上田博士の追憶」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
k 三上 参次「上田博士のことども」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
l 橋本 進吉「上田先生を憶ふ」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
m 松本 清張「正太夫の舌」(全集51『眩人・文豪』、1984.02)
n 佐藤 進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』(中公文庫、1974.02)
(年譜中にとりこまなかったもの)
* 円地 文子「藤衣」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
* 守随 憲治「上田先生と芝居と錦絵」(『国語と国文学』14−12、1937
.12)
* 栄田 猛猪「恩師上田先生を偲び奉る」(『国語と国文学』14−12、
1937.12)
北海道の未知の少年からの手紙をもらい、その少年の願い通り、
就職の斡旋をしたというエピソードあり。
* 島津 久基「上田先生」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
* 福井 久蔵「上田先生を偲びまつりて」(『国語と国文学』14−12、
1937.12)
* 志田 義秀「上田先生を偲ぶ」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
* 久松 潜一「上田先生を悼んで」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
* 金田一京助「上田先生追憶断片」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
* 藤村 作「上田先生をしのぶ」(『国語と国文学』14−12、1937.12)
* 石 剛『植民地支配と日本語』(1993.01、三元社)、18・131
・137・156頁